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回避と付き合うために考える


はじめに・この記事の前提

回避について調べてたけどろくな情報がなかった!ので自分なりに考えたことをまとめた。
回避性パーソナリティーの記事は、悩んでいる人が多いわりに「当事者にとって有用な」情報が少ないのだ。
薬の問題とか生育環境の問題は当事者にとって変えようのない部分なので、語られてもどうしようもない。
なので「できそうなこと」をテーマに書いてみた。

きっかけは怒られだった

この記事を書くきっかけは、上司からの叱責だった。
身バレが不安なので詳細は伏せるが、ざっくりまとめるとこんな感じだ。

  • 相談せずに勝手にやってしまうのがよくない。

  • 障害特性のことを説明しない。

  • (相談するのが嫌で)他の人の仕事を手伝いたがらない。

回避とは何か

回避とは「よける」という意味だが、精神医学では特殊な意味を持つ。
精神医学では「対人関係の不安により人を避ける、やりたいことを諦めてしまう」ことを「回避」と呼ぶのだ。
回避は、生活が営める程度であれば問題ない。嫌なものを避けるのは人間の自然な心理だからだ。
しかし、回避によってさらなるトラブルに巻き込まれたり、引きこもりや不登校になって世界から断絶したりすると、治療しなければならない病理となる。

回避についての情報がない

インターネットで回避について調べたり、本を探したりしても、ほしい情報が見当たらない。
回避というと、引きこもりや不登校を伴う重篤なものを扱ったものが多く、私のような「生活上やらなければいけないことは回避しないが、コミュニケーションを回避することでトラブルを起こしてしまう」タイプの話は載っていない。
仕方ないので、自分なりにわかっていることをまとめ、これから何をするか文章にすることにした。
これを読んで、自分も似たようなことで悩んでいるという人がいたら、それもどんどん文章に起こしてほしい。

なぜ回避してしまうのか理由を考える

とりあえずなぜ回避してしまうのか、理由を分解してみた。

1.めんどうくさいから

己の怠惰ゆえである。
締め切りよりもほうれんそうを後回しにしてしまう。
他人と対話すると、私も何かしら行動を変えざるを得ない。
いつものルーティーンを壊すことが嫌でダラダラ会話を回避してしまう。

2.予測できない反応が怖い

自分自身が話すのが苦手というのもあるが、相手が予測できないことを言うのが怖いのだ。
もちろん相手も私のことを理解していない以上、「こいつ変なことばかり言うな」と思ってはいると思う。
ただ自分の言葉を間違った受け取り方をされるのが怖い。
こうしてインターネットで文章を綴っているときは、意図しない取られ方をしても怖くはないので、不思議だ。
書き言葉とは違って、話し言葉はリアルタイムで意味が変容していく。その変化を乗りこなすのが難しいのかもしれない。

3.相手が気を遣ってくれているかもという発想が抜け落ちる

人間は楽な方に流れる。相手が気を遣ってくれているということも徐々に忘れていく。
気を遣われることが普通になりすぎて、相手が自分とは違う考えをしているかもしれない、という疑いを忘れすぎた。
あれこれ他人の考えを探るのはどうかと思うけど、相手と自分が違う、ということを忘れると自他境界を見失う。

今すぐできそうなこと

ざっくりとだが、今できそうなことを考えてみる。

1.ほうれんそうのタスク化


ハードルを下げるためには、ほうれんそうをタスク化してしまうことだ。
つまり何もなくても上司に報告するくせを作ること。
1日に一度は上司に話しかけ、何かしらのことを連絡する。
それによってほうれんそうのタスク化を行う。

2.コミュニケーションに関する本を読む


コミュニケーションがうまく行かないときは人の言うことを参考にする。
アドバイスを求めることも、孤立しないための対策なのだと思う。
あまり読んでこなかったビジネス系の本も読もうかなと思っている。

過剰適応を防ぐ

相手にあわせすぎると過剰適応となる

ここまで自分の努力でできることを考えたけど、やっぱり努力なんてしたくない、やりたくねえ~という気持ちはある。わがままだから。
無理をしてコミュニケーションをしなければならなくなるのもつらい。
話すのが苦手なのに「ちゃんと話さなければ」と努力し続けるのも嫌だ。
それは走るのが嫌いなのに無理してマラソンに出るようなことになってしまう。
だからコミュニケーションのコストを下げる、相手にもコミュニケーションのコストを下げても許してもらえるような環境を作るのが落としどころかなあ。

実際に過剰適応になったことがある

私は実際に過剰適応状態になったことがある。
あのときはつらくて3ヶ月くらい休職したなあ。
相手の問題を自分で解決しないと……となると病む。
そこはきちんと線を引かなくてはならない。
そもそも病気でなければ、障害者雇用で働く必要はない。自分の限界と職場との折り合いがつかなければどうしよう、という疑問がある。
「言われる前にやる」というスタイルでいると、やらなくてもいい仕事を抱えてしまう、まずそれを防ぐためにも人と対話をする。
忙しいとか疲れているとかを話すことを恐れない。かっこつけようとして強がったりしない。
少しずつでも嫌だなと言う雰囲気を出していく。

相手の問題は相手に解決してもらう

私の問題とは別として、相手が解決すべき問題もあるのだ。

  • そもそも仕事が忙しい。

  • なんとなく職場がピリピリしている。

  • 人員が不足している。

  • 仕事が遅い人も速い人もほぼ同額の時給で働いているのは不公平である。
    これらは私ではなく職場が解決すべき問題である。私だけに解決を求めるのは向こうが悪い。
    それを話し合うためにコミュニケーションを取れということでもある。
    ただ、この職場のこういうところが悪いというのは、いいづらいんだよね~。言っていいのはわかってるけど! 心理的安全性ってやつ?

嫌なことは嫌といいつつ他人を受け入れる

どちらが正しいとかではなく、バランスなんだよなあ。
他人を受け入れるor受け入れないじゃなくて、その間の曖昧な世界を歩いていかなければならないんだよね。
でも極端な方が思考回路が楽なのでやってしまう。人間は愚か。
「他人と話さなくてもいい」と「他人と話すべきだ」という二択の方が選ぶのが楽だから、その間の微妙な領域を選ぶという選択を放棄してしまう。
極端な価値観は短期的には楽だけど長期的には自分の人生を蝕む。ややこしい。人生はめんどくせえ~。

キャンペーンに応募するために一部を有料にしておきますが、特に意味はないです。

さいごに

社会ってめんどくせえ~けど社会から目を背けて生きていくことはできない。
しかし、何か失敗したときに、「これは同人誌のネタになる」と思えるのはいいことかもしれない。物書きであってよかった。
また何かしら書きたいね。


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