#34 秋の下で
初夏から続いていたマンションの改装工事がようやく終わろうとしている。
窓からの景色に鉛色のフィルターをかけていた工事ネットが取り払われて、涼しい風が遠慮なく入ってくるようになった。
今日は長袖でちょうどよかったです、一年中これくらいの気温が良いよね、なんて言い交わしながら駅へ向かう。
こんな日はピクニックとか行きたいって言うきみを地下鉄が運んでいき、わたしは朝の仕事を片付けるため駅前のカフェをめざす。
窓際の席から秋の気配がきざす街を見下ろしながら、とはいえアイスコーヒーを迷わず注文した。
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フュージョンベリーダンスアーティストIllan Rivière(イラン・リヴィエール) の来日公演とワークショップへ赴いた。
間近で見るIllan 氏の佇まいや踊りはやっぱりどうにも芸術的で、”風のかみさまがもし現代に降りてきたなら、きっと彼のような姿をしているんだろう”とぼんやり思う。
ワークショップで着流していた白いシャツや、全方位がぐるりと客席に囲まれたステージでまとっていた紅い衣装のたゆたうドレープすらも、彼の一部として意思を持ち、風に乗ってはためいているようだった。
そんなふうに思わせる踊り自体はもちろん、Illan 氏の眼差しにも釘付けになっていた。
ふいに目を閉じたり頭上の空間を見上げたり、肢体のムーヴメントに合わせて視線を移す折に瞳が光る。
それはただ照明が瞳に反射しているだけではない”今、ここ”にきらめく光の粒で、居合わせた私たちは確かに、彼の瞳の中に宿る”今、ここ”の輝きを見ているように思えた。
さらにYuukoKader先生のソロを見てまた泣く。
先生みたいになれるならどんなことでも何年でも頑張れると、これまでも何度もそう奮い立ってきた、弱気な心を揺さぶり震わせる強い光に照らされていた。
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アイスコーヒーを啜りながら、ミネラルウォーター1箱と氷と炭酸水をまとめてネット注文する。
配達時間までに仕事をいったん切り上げて自宅に戻っていたい。
冷蔵庫に貼り忘れずに持ってきたサンドイッチの100円割引券と伝票を手に、レジに立った。
夢から醒めたような日常に、ひるがえって考えてしまう。
果たしてどんなダンサーになりたいのか、目標のために正しい努力を重ねられているのか、何をもってプロフェッショナルといえるのか。
正解がない問いをもうずっと長いあいだ手の中に抱えて撫でている。
幸いにもインプットの機会は手を伸ばせば届くところにたくさん散らばっていて、プロの端くれとしてはアウトプットの精度を上げるために日々精進したいとも思っている。
本当は各種SNSでの情報発信も怠るべきではないことも、分かっている。
けれど私の体と心は1つしかなくて、当たり前に全てを選び取ることはできない。
時間やお金はだれにとっても有限で、眼前の生活との折り合いで日々いろいろなことに優先順位をつけるほかないのが現実だ。
そんな理想と現実のあわいで”努力が足りてないのではないか””自分だけ取り残されはしないだろうか”と焦燥の色をした鉛のフィルターに視界が曇っていく。
誰に対して努力が足りなくて、どこから取り残されることをこれほど不安に思うのだろう。
インターホンに応えてオートロックを解除する。
数分の後に玄関先に現れた配達員のお兄さんは肩で息をしていた。
「エレベーターが、工事で止まってて、」
言い訳のような不平のような、住人同士の世間話のような曖昧な笑顔を浮かべたまま、右肩に担いでいた段ボールを私の足元にどしんと置いた。
「ご苦労様でした、ありがとうございます」心からの声が溢れる。
ひとまずは人に優しくありたい。
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