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真実を見る目
ありのままで生きる。
自分らしく生きる。
少しずつではありますが、自分の事を自由に表現出来るような時代になって、社会や誰かが作った枠に入らない生き方ができるようになりました。
それは、とても嬉しいことですね。
ただ、ありのままに生きることや自分らしく生きるって、一体どういいことなのでしょうね。
自分を偽らないとか、個性を出すとかだと思うのですが、いきなり自分を出すことは難しいかもしれません。
長年、家庭や学校、社会の枠にきっちり入っていると、そこに従うことが正義だったり、その枠から外れてしまうことが悪みたいな固定観念を持ってしまうこともあるでしょう。
日本人は特に、優等生で良い人が多い気がします。
表面的には良い顔をしていないと生きにくい場面も多かったでしょう。
ですので、人との関係も深く付き合ってみないとわからない場合も中にはあります。
ありのままの自分で生きるということは、同時にありのままを見る目を持つ、ということでもあります。
自分だけありのままで生きたいけれど、相手のありのままの姿は受け入れないというのは、結果的に自分のありのままをも受け入れていないことになるのではないでしょうか。
私はありのままの自分で生きたいのだ!
と宣言するのであれば、あなたの周りにいる人や環境、今までの出来事、そのすべてをありのまま見る覚悟も必要かもしれませんね。
ではさらに、ありのままの目で見るというのはどういうことでしょう。
言葉の通り、そのままを見るということになると思います。
相手や物事、出来事、環境をそのまま見て、自分の固定観念や思い込みで裁かないこと。
また、自分から見ておかしいなと思うようなことであっても、相手を修正しようとしたり、罰したり、傷ついた人を癒そうとしないことではないでしょうか。
以前の投稿で、
私は人を癒そうとしていたと書きました。
人に何かをしてあげたい気持ちは、私もそうだったので痛いほどわかりますし、相手の性格を見て、あなたはこうすればいいのに!と修正したくなったり、教えてあげているという状況もよくわかります。
でも、それは相手を信じてないような感じがするんですよね。
人には人のやり方も進み方もあるわけで、すべての人が素晴らしく完全な能力を持っているのだから、参考までに自分の経験を話すとかぐらいはしたとしても、その先何を選ぶのかは選ぶ本人の自由だと思うのです。
だから、ありのままの目で見るということは、もしかしたら表面的には冷たく見えるかもしれなけれど、人の力をただ黙って信じて、あとはどんな選択をしたとしても尊重する、これだけなのかもしれません。
求められてもいないのに、失敗する前につい手を出してしまって、良かれと思って助けてしまうこともあるでしょう。
しかしそれは、相手の成長の機会を奪ってしまう可能性もあります。
その人にとっては、例えば、転んで自分で起き上がり、次に転ばない方法を学ぶための大事な機会だったかもしれませんから。
自分に対しても同じことがいえるかもしれませんね。
ありのままで生きたいのであれば、自分の事もありのままを見ることになります。
今まで失敗だと思える状況や苦悩があったとしても、裁かずに、自分の力をただ黙って信じて、次にどんな選択をしても、自分が選んだことや自分自身を尊重することです。
もしかしたら結局それは、
『何もしない』をする
ということなのかもしれません。
実はある晩、夢の中で声が聞こえました。
『何もしない』をする。
その時はこの意味が今ひとつわかりませんでした。
だらだらしていいのかなーなんて軽く考えていたのです。
でもそうではなくて『何もしない』をするというのは、
自分を信じて、乗り越える力がある、苦境だったとしても、それを選んだ強くて勇敢な魂だ、と絶対的な信頼を置いている状態をする※
ということなのではないかと考えています。
難しいですか。
私も一体何を書いているのかわかりませんが、もう少しお付き合いください(笑)
※する(do)についてなのですが、
何かを『する』とした場合、自分から他者に向かうとき、
例えばボールを自分が持っていて、相手に投げる(する)とします。
親切をする、愛する、優しくする…これらはする(do)であって、ボールのように、人から人へ何かが移動するイメージがありませんか。
そう考えると、親切とか、愛、優しさなどを自分の手元から、人に渡すような印象があります。
でも、何もしないをするということは、手元にあるものを渡すのではなくて、それぞれの手元にすでにあると認めることです。
ですから、渡す必要も、もらう必要もなく、その状態であるということに気が付くことだと思うのです。
なので『何もしないをする』のする(do)は能動的ではなくて、
I am(自己受容)で、存在そのものが愛であり、親切、優しさ、強さであるということを認めたことだと思います。
皆さんは、今この瞬間から自分の事をこのような存在だと思えますか。
自分にはその力がある、自分は今の人生を選んで生まれてきた、どんな状況であっても乗り越えられる強い魂の持ち主だ、と受け入れることができますか。
今もしまだ自分の事をそう思えなくても、私は皆さんをそう思っています。
なぜなら、ありのままの目で見た時に、すべての生命はそのような素晴らしくて完璧な存在だからです。
いかがでしたか。
書いているうちに何が何だかわからなくなりましたが(笑)読んでくださった方へ伝わるようにテレパシーを送りたいと思います。
今日も読んでくれてありがとうございます。