おなじ淵にいたこと~『リバーズ・エッジ』に寄せて~1
映画『リバーズ・エッジ』を観に行きました。
28歳の私がこの作品の実写映画を観るなんて、原作をはじめて読んだ高校生の頃には想像もできなかったと思う。しかも主題歌として小沢健二の“新曲”が流れるなんて…!
私という人間の中にある醜さや欲望を初めて真正面から受け止めることができた、その助けをしてくれた作品。
私だけじゃなく、この漫画に出会った多くの人が何かしらの「初めて」を感じたのではないでしょうか。
いま、感謝をこめて書こうと思います。
岡崎京子さんが描いた『リバーズ・エッジ』と出会ったころの話を。
高校1年生だった。
吹奏楽部の強豪校に音楽推薦で入った私は、1年生の秋の大会が終わるとすっかり部活に飽きてしまった。
病気にでもならない限り退部ができない厳しさだったので、私はうつ病に罹ったふりをしてなんとか退部を認めてもらった。
今思うと本当にあほみたいなんだけど、当時は必死。
親にまでこんなふりをするなんて親不孝者としか言えないけれど、私にとって部活だけが生活の総てで、その総てに飽きてしまったのだから
「これはもう生きるのに飽きてしまったと同じようなこと。その憂鬱さから抜け出すには辞めるしかなくて、その為には仮病も一つの手段」
と自分に言い聞かせて正当化していた。
退部ができて心が晴れやかになったかと言うと、そういうわけでもなかった。
学校生活の総てが部活だったのだから、交友関係も総てそこでリセットされる。
放課後を持て余した私は、時間を埋めるように本を読んだり、映画を観たりして過ごしたり、遠回りをして下校したりした。
インプット、インプットの日々がしばらく続くと、やはり衝動としてアウトプットがしたくなる。けれど、私には本の感想を話せる友だちもいなかったし、家族にも映画を観て「こんな風に感動した」なんていう話もできなかった。
話したい、叫びたい、喜びたい、怒りたい。
いろんな感情をひとりで抱えきるのが、つらいというよりも勿体なかった。
なにかを表したい激しい気持ちと裏腹に毎日が少しずつ平坦になっていく感覚に、このまま何もできないで青春が終わることへの勿体なさ。
少女漫画を読んで育った私にとって、青春の絶頂=高校時代であって、たとえつらいことがあったとしても、それも含めてキラキラしているものだと想像していたのだ。
こんなにも淀んで滞っている青春があるなんて知らなかった!
私は意を決して手紙を書いた。
部活のことで相談をしていた担任の先生に。
現国を教えていた女性の先生で、国語以外にも美術や音楽など芸術全般に造詣が深い先生だった。
世の中には善と悪だけじゃなくて、正しい正しくないだけでもなくて、美しいも醜いもすべて含めて世の中に作品が生まれているということを教育者というよりかは一人の大人として教えてくれるような人。
私は五月のある日、先生に、「頭の中のタンクを逆さまにしたいから強制的に交換日記の相手をしてほしい」と手紙を書いて購買で買ったノートブックを渡した。
その日記に、私は日々感じたことをなるべく飾らずに書くと決めて心の内を記した。
それは青臭い自己陶酔のような日記(日記とはどんな時もそういうものなのかもしれないけど)
にもかかわらず、先生は応えてくれた。
“私もあなたに負けないくらい、勝手に、「頭の中のタンクを逆さま」にしようと思います。私も思いっきり「自己中」に自分の思ってることだけを、このノートにぶつけようと思います。
あなたも「自己中」。私も「自己中」でいきましょうよ”
なによりも嬉しい返事だった。
先生は、私に薦めたいという本を三冊一緒に紙袋に入れて机に置いておいてくれていた。
ジョン・アーヴィングの『ガープの世界』
大島弓子の『つるばらつるばら』
そして
岡崎京子の『リバーズ・エッジ』
少女漫画らしくない素っ気なさを感じる表紙に、なにかビリビリと「これだ!」と感じたのを今でも鮮明に覚えてる。
なんなんでしょう、あの感覚は。
前世の友とでも出会ってしまったような求心力があったんです。
それが、私と『リバーズ・エッジ』との出会い。
半端になってしまいましたが、今回はここまでにします。
漫画の感想と映画の感想は、また次回の日記で書こうと思います。