「何者」についての覚書き
※あまりにも論展開がふわっとしていたので、書き直しました。
本稿のタイトルにあげたのは、ハイキュー最新巻のタイトルだ。全日本男子バレーの監督雲雀田の「今日 敗者の君たちよ 明日は何者になる?」という台詞は、武田先生の「負けは弱さの証明ですか?」(69話)「負けは今の力の認識であっても 弱さの証明ではない」(369話)に並ぶ名台詞である。そして、現在の本誌の展開からは『ハイキュー!!』は、バレーボール漫画というよりも、バレーボールとそれぞれの「人生」の漫画という様相を呈してきた。影山飛雄のような人生そのものがバレーボールと言ってよい者や、日向翔陽や及川徹のように、一生をかけてバレーボールを追い続ける者、宮治や北信介のような、バレーボールからは離れてもたしかにバレーボールをしていたし、現在もそれを支える者たち。『ハイキュー!!』は、バレーボールとさまざまな距離感の人生が描かれており、そこに優劣はない。宮治が381話で述べたように「バレーを続けてる方が『成功者』」なのではなく、自分で考え抜いたなりたい姿になること、つまり、何者になるかが重要なのだ。それがバレーボールの人生もあれば、教員であることもあるし、警官であることもあり、デザイナー、博物館員、家電メーカーのサラリーマン、銀行員、などなど、「何者」であってもかまわない。そこに、思考があるならば。
このように、ハイキューでは「何者」という言葉はとてもポジティブな意味で用いられている。もちろん、この物語でいう「何者にでもなれる」というのは「正しい思考」と「正しい努力」の末にやってくるかもしれない……、いや、少なくとも「ないと思ってたら一生ない」ような、そんな稀有な「何者にでもなれる」であって、信じれば夢は叶う、友情!努力!勝利!といった言葉で表されるものとは少し違う(詳しくは※1を参照してもらいたい)。ハイキューが肯定する人生とは、バレーボール選手だけではない。しかし、ただ、全ての人生が肯定されるという訳でもない(※2)。この物語は「明日、何者になる?」という問い掛けを、真摯に受け止めたものだけにもたらされる祝福なのだ。
私は、本作に用いられる「何者」という言葉が好きである。そして、ハイキューで「何者」がキーワードとなったことから確信に変わったが、この「何者」という言葉は、近年の一つのトピックなのではないか。「何者」になる/なれないを軸に人がどのように生きるのか生きるべきかを考えさせる物語が、アニメ、漫画、小説(映画)など、ここ10年の間に度々見出だせるのである。
例えば、2011年に放送された「輪るピングドラム」では、主人公の一人高倉陽毬がペンギン帽子をかぶった時に発せられる決め台詞に次のようにある。
詳しい物語の紹介は割愛するが、本稿に関係のある部分だけをひっぱりだすと、この物語はオウム真理教をモデルとしたカルト集団:ピングフォースが存在し、主人公ら兄弟の両親がその主犯格という設定である。ピングフォースは、「個人」という「箱」を破壊し、全ての人が文字通り、等しく同一になるエヴァンゲリオンでいう人類補完計画のような世界を夢見ている。彼らに言わせれば、現在の世界とは「きっと何者にもなれない奴らが支配して」いる「理不尽で不公平な」醜い世界なのだ。だから「本当のことだけで人が生きられる美しい世界」を目指さなくてはならない。しかし「個人」という「箱」を認めない彼らの言う「何者」とは、何なのか。カルトの徹底した「個人」の排除は、はじめから「何者」かになることを認めない。はじめから終わりまで、わたしはあなたで、あなたはわたしで、彼は彼女で、彼女は彼で、それはあれで、あれはこれで……。と、そこには境界がない。言語は差異の体系とも呼ばれるが、境界を認めないことととは、ある事物、現象を他から切り出すことを特徴とする言語を認めないこと。言語を認めないとは、思考を認めないことを意味する。つまり、ピングフォースの言う「本当のことだけで人が生きられる美しい世界」で生きることとは、空気のように、水のように、絶え間なく、流れる存在になることを意味している。
それを踏まえて、先の引用を見てみよう。プリンセス・オブ・ザ・クリスタルの台詞は「きっと何者にもなれないお前たちに告げる!」という高らかな宣言から始まる。ここでは、「お前たち」は、はじめから「きっと何者にもなれない」と決まっている。しかし「生存戦略しましょうか」と続くように、ここでは「何者」にもなれないまま、生きることが求められているのだ。さて、「何者」にもなれないが「生存戦略」するという文脈で思い起されるのが、朝井リョウ『何者』(2012年)である(※4)。映画にもなったことからご存じの方も多いだろう。
ネタばれも甚だしいが、この台詞は「何者」という語が提起する問いへの端的な答えの一つとして見てよいだろう。これらの物語は、私たちは「何者」にもなれないと言う。私たちは「何者」にもなれず、ただ、いつまでも「私」としてしか存在することができない。しかし、小説『何者』は「痛くてカッコ悪い今の自分を理想の自分に近づけることしかできない」ことを肯定する。ピングドラム流にいえば、「何者」かになるのではなく「我にかえれ!」(輪るピングドラムOP「少年よ我にかえれ」)と告げているのである。
2に続く。
※1いわゆる主人公・日向翔陽は、「小さい」というバレーボールにおける圧倒的なハンデを負っている。物語の序盤では、優れた運動神経と根拠のない自信(というよりはやる気?)+影山飛雄という天才的相棒を手に入れたことによって、烏野高校は快進撃を遂げる。しかし、物語はそう単純ではない。物語が進むにつれて、日向は、優れた運動神経とやる気だけではどうにもならない現実と向き合うことになっていく。その一つ目の山場が、白鳥沢監督鷲匠の「影山というセッターの居ないお前に 俺は価値を感じない」という発言だ(そして、これが、全部できるようにならなくちゃ、と、強いセッターのいる所に行かなくちゃにつながる)。この辺りから、日向は考えることを始める。「お前は何をやっている?」と牛島に問いかけられた日向は「探せ 探せ 考えろ いつもと同じ視線じゃ駄目だ いつもと同じ考え方じゃ駄目だ」と「思考」し始める。この思考の「クライマックス」が365話「終わりと始まり2」の「そして君は今 ”がむしゃら”だけでは 越えられない壁が あると知っている その時 必要になるのは 知識・理性・そして思考」だという武田先生の台詞だろう。ハイキューは、友情や感情では勝たない。正しい知識に基づく正しい思考の上に成り立つ正しい努力があってはじめて勝利する。そして、それはいわゆる主人公サイドだけでなく、ライバルサイドも同じことだ。だから、1巻から42巻まで、物語の試合と展開が最後まで読めないようになっており、ハラハラ、ドキドキがつづくという訳である。
※2基本的にこの物語に怠惰な人間は登場しない。「根性無しの戦い」では部活から縁下が逃げた物語が描かれる。ここで縁下は「二人はバレー部を辞めて 前より活き活きしてる様に見える」「どっちが いいのかは 多分人による」と語り、もちろん辞めたことが悪として描かれる訳ではない。怠惰であるから辞めたという訳でもないだろう。しかし、その辞めた二人の「物語」は、今後ハイキューには登場しない。第一巻で登場した、雪カ丘中学の同級生・イズミンとコージーがたびたび物語に顔を出すのとは対照的だ。つまり、残念ながら辞めた二人にもあるはずの彼らの「物語」はハイキューと言う物語からは、排除されてしまったのである。
※3「輪るピングドラム」と『何者』は全く関係のない物語で、この二つを結び付けたのは私の恣意的な読みに過ぎないため、ざっくりまとめられることに抵抗のある方もいるかもしれない。全くその通りであるため、不快な思いをされた方には謝罪します。申し訳ございません。また、関係のある所だけを拾いあげてかいているため、もちろん総体としての私の解釈はここに書かれた通りではありません。気になる点がある方はご連絡ください。