「何者」についての覚書き・2
さて、学校には、キャリア教育、進路指導、職業教育、さまざまな「何者」化教育がある。このnoteを書いている私は教員であるため、この「何者」化教育に実際に携わる立場なのだが、だからこそ、キャリア教育に強い違和感と、そうは言うものの、現実問題必要なのだという相反する感情を抱いている。
以前、田口ランディの『クリスマスの仕事』(初出、2000年)を教材分析したことがある。この物語は、楽器奏者である「僕」が病院で植物状態の患者を相手に演奏会をするといったものだが、中学生の感想は「音楽が人の心を繋ぐ」といった言語以外のコミュニケーションの有用性にとどまることが多いようである。しかし、ここで語られているのは、(田口ランディの筆力の問題はあるものの)音楽云々というよりも「人間をどのように定義するか」という問題提起である。植物状態の人間を主人公「僕」は、怖いと感じる。人間とは、動いて、考えて、感じて、なんらかの活動をするものだと「僕」──我々の世界の「普通の」「常識的な」感覚の代弁者──は思っている。だから、生きているのか、死んでいるのかもよく分からない、動かない、喋らない、患者達を恐ろしいものだと感じるのだ。一方、その患者の髪をおさげに結ってあげたり、優しく話しかけたりする「婦長さん」には、患者を恐れている様子はない。ただ、生きている。ただの、命。生きること、生きていること、命あること、を肯定する存在として描かれている。ただ存在することが肯定される。何もできないことが、存在を否定される理由にはならないのだ、という批評精神をこの物語からは読み取ることができる。この「何もできないこと」が存在の否定につながる空気感は、自己責任論の時代に産み落とされた私にとっては、痛切な問題であり、多かれ少なかれ、同世代には実感があることだろう。
実際、2016年には、相模原障がい者施設殺傷事件と呼ばれるいたましい事件が起きてしまったが、田口ランディの『クリスマスの仕事』はそのような、存在の根拠を有用性に求める考え方を批判している。だからこそ、学校教育の現場では、生きることそのものの価値や、人権について、直接的にも間接的にもメッセージを発していく必要があるのだが、道徳教育の強化という意味不明な(※1)教育改革が行われているこの国では、残念ながら道のりは遠いように思われる。
さて、そのような時代に、学校では、夢を持ちましょう。将来の目標を定めて今なにをすべきか逆算しましょう、目標にむかって努力しましよう、と教えられる。きっと、夢を持っている人にとってその手順はまちがっていないし、いくら生きることそのものが尊いと言っても、現に私は「教員」になったし、私たちは「何者」かになって生きなくてはならない。ハイキューで言えば、日向翔陽も及川徹も自分のありたい姿を見据えて、現在地を定めてきた。しかし、この夢を持とう=「何者」かになろうという言説は、現在の自分が否定されているように思えなくもない。誰かに、何かに、ならなくちゃいけないの?今のままではいけないの?という素朴な疑問に、答えられる大人はそう多くない。多くないというよりも、何かにならなくてもいい、あなたがいることが大切なのだというメッセージと同時に、生きるために、嘘をつくこともあれば本当のことを言う、善い子であり悪い子でもあるあなたが「何者」かになって、今生きている他の人々と共に生きていこうというメッセージを発することは本当に難しいのだ。言っていることが矛盾しているからである。だから私達の耳には、どちらか一方だけが耳に届いてしまう。子供の耳には、おそらく「生きているだけでいい」的な言説は「きれいごと」として処理され、「何者」化言説ばかりが耳に入っているのだろう。そう考えたとき、誰かの発する「何者かであれ」が、善意からくるものであればあるほど、正しければ正しいほど、人は「何者」にもなれそうにない自分が嫌になる。
話が教育方面にそれてしまったが、本題に戻りたい。さて、『進撃の巨人』に登場するキース・シャーディス(主人公エレンの教官であり、有名な「何の成果も得られませんでした!!」を発した人物)は、そんな「何者」にもなれなかった大人の一人である。彼は自分を「傍観者」と位置付けた(※2)上で、自らの過去を明かし、かつてのカルラ(エレンの母)の言葉をエレンに伝える。
「特別じゃなきゃいけないんですか?絶対に人から認められなければダメですか?私はそうは思ってませんよ。少なくともこの子は…偉大になんてななくてもいい。人より優れていなくたって、だって、こんなにかわいい。だからこの子はもう偉いんです。この世界に生まれて来てくれたんだから」(『進撃の巨人』18巻、2015年)
この台詞は、先述した「何者」化教育を経て育ってきたかつて子供であった大人たち、現在の子供達にとって、どのような意味を持つのだろうか。私の考えは既に述べた通りである。現実には『星の王子さま』のように、目に見えない大切なものだけを大切にする生き方はできない。目に見えない大切なものと、目に見える大切なものを両方、大切にすること。欲張りだが、その両立と中庸が重要なのである。
ここまで、『ハイキュー!!』「輪るピングドラム」、『何者』、『進撃の巨人』と四つの作品を並べてみた。もちろん作品同士には直接的な関連はなく、私が恣意的に選んだものだ。しかし、これらを並べて見たとき、これだけ有名な作品がこぞって私たちの在り方について「何者」にもなれない/「何者」にもならなくてよい/「何者」にでもなれる!といったメッセージを発しているのは、それだけ「何者」になるか/ならないかという問いが現在、意味を持っているからだろう。私達は、ほんとうは「何者」にもなれないけれど、同時に「何者」かになる努力をしなくてはならない。でも「何者」にもなれなかったこと、努力できなかったことが、存在の否定の理由にはならない。人間はそういった矛盾する、あるいは循環してしまうような、曖昧で複雑で奇妙な在り方をしているのだろう。
※1人権と道徳はまったく異なるものであり、「思いやり」や「やさしい気持ち」等で人権問題を何とかしようという発想がそもそもずれている。構造的な差別をいかに解体し、差別を助長しない仕組みを作っていくか、そのような批判的な思考力が求められる問題である。
※2ちなみに、朝井リョウ『何者』では自らを「観察者」と位置付ける二宮拓人は批判の対象となっている。