【映画】レディ・プレイヤー1
4月28日、公開2週目の『レディ・プレイヤー1(Ready Player One)』を観てきました。自分としては大注目作品というほどでもなくて、評判が良かったら観に行こうかな、くらいの感じだったのが、TL界隈でとっても高評価だったので。おもしろかったです。非常にバランスのとれた、今の時代のためのよくできた冒険映画でした。いつものようにネタバレを避けてつらつらと感想を書き連ねつつ、記事の後半はネタバレありで行こうと思います。
観るビデオゲーム!
2045年の荒廃した地球、人々が希望を見出すのは唯一VR仮想空間「オアシス(Oasis)」の中だけ。そのオアシスの創始者であるジェームス・ハリデーの残した遺言を巡って、3つの"鍵"を奪い合うプレイヤーたちの戦いは既に5年目を迎えていた…。
本作は数多くの80~90年代ビデオゲーム、アニメ、映画を題材にしていますが、実際のところ、映画のシチュエーション自体がもうビデオゲームと構造的に相似形を成しています。腕前を競い合い、謎を解き、アイテムを集め、エンディングを目指す。これは、観客が主人公たちの目線でオタク的ポップカルチャーを追体験する、まさしく「観るビデオゲーム」でもあります。
スピルバーグによる強烈なオタク・カルチャー礼賛映画というのは噂に聞いていたので、逆に極めてライトオタクな私の場合、元ネタを知らずとも作品単体として楽しめるかどうかが気がかりでした。結論から言って、私でも全然大丈夫だった。作中に出てきたなかで知っていると言い切れるネタは、おそらく半分にも満たないかもしれないけれども、少なくとも80年代カルチャーに囲まれて育ったという同時代性は共有している。
ハイコンテクストだけどいやらしくない
そう、確かに高度にハイコンテクストではあるのです。例えば、ビデオゲームのお約束を何一つ知らない人(うちの親のような世代)が見てもまったく響かないと思うし、Oculus RiftやHTC Viveやそれに類するVR技術に何の未来も透かして見ることができない人(確かに一定数いるはずだ)には、最後まで観てもなんのこっちゃだと思います。たぶん疎外感がすごいと思う。
逆に80年代をまったく通ってきていない、若い人にとってはどうだろう。これはまあ、世の中に溢れる優れた娯楽作品で過去を参照していない作品はひとつもないので、それと同様に、ここから遡って名作を辿るというのは全然あるのかもしれません。
そして、トレイラーではよく分からないと思いますが、この映画の半分は実はアニメ映画です。時間配分的に半分行ってるかどうかは不明だけれど、CGのアバターがCGの世界を飛び回る完全にアニメーションの画面が、意味的にはきっちり半分ある。そういったわけで、特に前半部分などは何だかゲームのムービーシーンを見ているような…実写パートのコリオグラフィーとの次元的な差異が気にならないではない。アニメはとかくオーバーリアクションなのだ。
しかし、それにしても、ものすごく複雑なプロットを事も無げにわかりやすく綴っていて感心してしまうのです。複数のキャラクターが、仮想世界と現実世界を行ったり来たりするし、地理的にも物理肉体があっちゃこっちゃ移動する。でも、全然混乱することなくお話に集中して楽しめる。
ビデオゲームはもはやリアルライフの一部だ
ストーリーは、ひねりやイジワルなところがなく王道。最初はふ~んという感じで観ていたのが、後半のめり込んでいく。特にジェームス・ハリデーというキャラクターが匂わせる強烈なメランコリーと遠い子ども時代への郷愁、それに彼が人生に残した後悔とそれを未来に繋いでいくシーケンスは、序盤の単なる宝探しを遥かに超えて、メタ的なリアルライフへの熱いメッセージを伝えてくる。
これは、ビデオゲームに囲まれて大人になった人たちのための、VRに未来を感じられる今この時のための映画です。細かい元ネタをいちいち知らなくても全然大丈夫。私には響いた。同じ文脈を共有している人は絶対観てね。
◆ ◆ ◆
ここから先は、ネタバレありのレビューをもうちょっとだけ続けます。
ゲームは一日一時間
近未来を描いているにもかかわらず、本作で示されるテクノロジー観はたいへんにオールドスクールなものです。AIが自我を獲得したりだとか、人間が魂をネットワークにアップロードするというようなSF映画がわんさかある近年にあって、2045年にもなっていまだになんか変なヘッドギアを被ってルームランナーの上を走ったりしている。挙句、「ゲームもいいけどリアルな人生もいいぞ!」みたいな手垢のついたようなことを臆面もなく言ってくる。いや、知ってるよ!みたいな。
それでもなおこの作品が素晴らしいところは、2018年の今だから伝わるモチーフ、今だから伝わるギミックを通じて、リアルとヴァーチャル(つまり現実とイマジネーション)は決してどちらかが上位の排他的な関係なのではなくて、共に車輪の両輪であるというのを、分かりやすい現代の物語として語り直してくれたところだと思います。オアシスが火・木を休みにしたのは、まさしく「ゲームは一日一時間、外で遊ぼう元気よく」という高橋名人の教えですよね。
『パンズ・ラビリンス』との違い
エンドロールを眺めながらぼんやり思いを馳せたのは、ギレルモ・デル・トロ監督の『パンズ・ラビリンス』との違いについてです。どちらも主人公が辛い現実を離れて空想の世界に救いを求める映画で、現実と空想を行き来するところも、そういえば最後の最後のクライマックスで悪役に銃を突きつけられるカットまでも似ている。そしてどちらも正しく「イマジネーション賛歌」であると言えます。
ただし、銃を突きつけられた結果は正反対になった。そこから導き出された主題も、『パンズ・ラビリンス』が空想の尊さと儚さを謳っているのに対して、『レディ・プレイヤー1』が「現実も悪くないぞ」なのだからまるっきり違う。近いテーマでこうも変わり、しかもどちらのメッセージにも強く頷けるのだから映画っておもしろいなあと思います。
俺はニンジャスレイヤーで行く!
でね、やっぱ人生で影響を受けた作品ってもう自分のエゴを形成する一部なのであって、だからこそハリデーの記憶アーカイブそのものが謎を解く手がかりになったのだし、同時にまたウェイドら仲間たちが自らを投影するアバターや乗り物としてデロリアンや金田バイクやガンダムやアイアンジャイアントをごく自然に選択したのですね。IOIのソレントにはそれが分からなかったし、そういうタイプの人は現実にもままいるわけで(もちろん、それ自体は悪いことでもなんでもない)、そのあたりの断絶の切なさをユーモラスに描いているところも批評的で面白かった。
この映画で描かれるメランコリックな思い出の作品の数々を、もし自分に当てはめるならと考えてみるのも楽しい。めちゃくちゃ感情移入できるはず。私にとってはもう『ニンジャスレイヤー』はそういった作品のなかの一つだし、忍殺も2045年とかには、今よりもっとたくさんの人にとってそういう位置付けの作品に成長しているといいですよね。
いろんな意味で夢のある作品でした、『レディ・プレイヤー1』。原作小説も気になるからそのうち読んでみようかな。
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