なるべく良い奴でいたいってもうそれだけなんだよな

生きているのがかなり嫌になってきた。

病を患っているし、公的補助があっても月3万医療費がかかるし、しょっちゅう入院とかして労働が不可能になるぐらいには体調が悪いのだが、かといってなんらかの制度のお世話になるには色々な要件でだめそうだし、筆者幼少のみぎりより不機嫌になると筆者を殴打し罵倒することでストレスを発散し筆者が急な体調悪化で入院した際には病院へ向かう車中で30分強筆者を罵り続け病床にスピ本を見舞い品としてぶちこむなどしてきた活動実績のある親は経済的に自立できそうにない筆者と同居するのに前のめりだ。前のめりなのだがそののめり方はまず実家の子供部屋を潰し筆者の私物を処分してパーソナルスペースを全消去するというもので、筆者は割と真剣に同居するよりは死んだ方がマシだろうなと感じている。

筆者としては、労働し金を稼ぎ誰にも危害を加えられない生活空間を維持していきたいと思っているし、労働を経験してみた所全然嫌じゃなかった(親より自分に危害を加えてくる他人は中々いないので実家よりストレスフルな勤め先は早々ないのだ)のでどんどん働いていきたいところなのだが、中々どうして病がそれを許さないのである。楽しく働いていた勤め先への退職届を病床で書く経験が二度目ともなると、結構心が折れてきた。退院して一月が立とうかという折りにまたしても体調が悪化して新たな職を探すどころではなくなってしまい、もう「いやはや……」って感じなのであった。

この先待っているのは、最良によかったところで「確定で月三万円以上の病による支出を発生させつつ常人より少ない収入で暮らしていく可処分所得の少ない暮らし」であり、老後の備えに貯金など望むべくもないだろう。自転車操業を倒れるまでやっていって、倒れた先でだいぶ苦しんで野垂れ死にそうだ。二週間ほど絶食したり持病の悪化で患部が痛すぎて三日ほど一睡もできなかったりした経験のある筆者は野垂れ死にの際発生するであろう苦痛をそこそこリアルに想像することができ、中々げんなりしてくる。こういう人生にどんなモチベーションをもって生きていけばいいのだろうか。


なぜ自死を選ばないのかというと自死する気力の持ち合わせもあんまりないからという一点につきる。ここ一週間も痛みを紛らわすために横になってたらそれだけで一日終了という流れを七回繰り返した。手段を選ばなければ死に方なんかいくらでもあろうが、筆者はなるべく苦痛を感じたくないし、他者に不利益の生じる方法は避けたいのである。となれば手段の選定だけでも一苦労で、寝込んでたら一日が終わるような者には自死すら簡単ではないのだ。

別の論点でいえば、筆者の問題はおおよそ金がないということに尽き、一回宝くじでも買えばそれで問題が解決する可能性がないではない。本当に手段を選ばなければ死ぬなんていくらでもできるし、まあそれまでは生きてみるかという様子見の生。それが筆者が今生きているすべてといってよかった。

でもまあ中々憂鬱で、一日の中で何度かある痛みのボーナスタイム(一回1時間強)は筆者に常に「なんで今生きてるんだろう」と思わせる。生の快楽と感じる苦痛の差し引きにおいて天秤は明らかに一方に傾いているように現状見える。理性的な判断としては、今損切りするのもそれなりに妥当だ。

だから不思議なものである。

何故生きることは直感的に善い事かのように思えるのだろうか。

筆者は、もしも誰か他人に筆者と同じ苦痛を味わわせることができるとしたら、それは間違いなく加害行為だと思う。そして、同時に世界には筆者が幸い感じることを免れているより激しい苦痛がめちゃくちゃいっぱいある事も知っている。筆者は他者にそんな苦痛を味わわせるかもしれないことはやりたくない。

この世界に新しく人を誕生させるということには常に、その人をひどい目に遭わせる可能性がつきまとっている。そして、何者であれ子供を完璧に庇護することなどできようはずもない。これを直視した上でなお新たに人を生もうと思える人の事が筆者は理解できない。子供が生まれてくるのを社交辞令として祝いはするが、その子がこの先どんな苦難を味わうのかわかりゃしないということがいつも頭をよぎり、祝いの言葉を言いよどむ。

でもだからといって自死をみんなに勧めようという気にはならない。自分と全く同じ条件の他者がいたとしたら、多分筆者は「まあ死ぬなんていつだってできるんだし、来月かかる映画がめちゃくちゃ面白かったりするかもしれないし」とか言ってしまう。他人の生の苦痛を勝手に軽く見積もるような真似はしたくないし、死んだ方がましだと思える状況はあると理解できるのに、なぜか生きているのは善いことに思えるし、子供が生まれたらそれは祝わなければいけないような気がするのだ。これはとても不条理だ。

生きることは苦痛だと思っているのに人には生きていてほしいと思っていて、しかし自分はサディストでもないつもりなのだ。これは整合性がない。

筆者はもうかなり生きていたくないのだが、生きていくにあたって思うのは、なるべく良い奴でいたいということだ。他者に苦痛を与えぬ者になりたい。嫌なことが100/100であったならば、この世は地獄だ。でも、99/100だったなら、まだ自分は運が悪かっただけだと思える。101回目に良いことがあるかもしれないと期待できる。筆者はその1/100になるようなことができたらいいのにとそういうことばかり考えている。考えているだけで、普段は寝込むばかりで何もできてはいないのだが、とりあえず買い物の折レジ打ちの人がなんかうまくいってないようだったら「全然大丈夫ですよ」とか言うようにしている。もうそういうことしかできやしないので。

欲を言えば、筆者は言いよどむことなく子供が生まれてくるのを祝いたいのだ。疑念を抱くことなく死にたい人に保留を提案したいのだ。世界は良い場所で生きるのは楽しいことだと思っていたい。であらば、とりあえず自分が他者に苦痛を与えない人間になろうとするよりほかにない。そして、みんなに「心から憎む怨敵というならまあ仕方ないけど、それ以外にはなるべく意地悪なことしないでやっていきませんか」と言うしかない。正直筆者自身それでどうにかなるとは思えない。けどまあ、こういうのって小さいことを積み重ねていくことでしかどうにもならんので。その先でどうにかなりゃいいねと祈るように思っている。

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