血の呻き 上篇(1)
血の呻き
沼田流人・著
一
彼は、胸の上に頭を垂れて、ぼろぼろな小さな家々の靠れかかりあって並んでいる、日の光りも当らないような、狭い巷の泥濘路を、のろのろと步いていた。
ひょろ高い瘠せた軀にひどくぼろけた短い黒外套(※オーバーコート)を纏って、黒い囊かなぞのように、型の頽れたソフトを眼深に被った下から、肩の上までも長い黒い髪が縺れて、垂れかかっていた。その洋袴も、小さな靴も、この所有者のように疲れ、破れている代物だった。
それに、彼の左の肩から垂れている、重たい義手ももう壊れかかって、惨めな有様になっていた。歪んだ、古い柩のような屋根の蔭に沈む、八月末の夕陽は、塵埃と疲憊とに汚れたような、悩ましい灰黄色な顔を歪めていた。低く垂れた空は、その厭わしい陽光に塗られて、重い汚れた掩布(※掩い布 カバー)のように見えた。その下をぼろぼろな、この暗い陋巷の居住者等が、のろくさと路を步いていた。
一方が材木置場の空地になっている三角辻に来た時、彼はふと立止った。その街角の店は、古着屋で、老いぼれた縊死者のような、汚ない襤褸が吊るされていた。彼は、長い間、その店の前に立ってじろじろと眺めながら考えていた。然しこの、自分の軀や霊(※魂)までも、売飛ばしてしまった人間に、何の売るべき物の残されている筈がなかった。誰が、こんな、ぼろけた生物の肉やその履物なぞを、買取るものだろう。
彼は、溜息をついた。
そして、またのろのろと歩き始めた。
「ふむ、洋袴吊りはないし、第一外套には、唯一つの釦さえも残っちゃいないんだ。……」
彼は、自分自身に呟いて、言聞かせた。
無論、その通りだった。
然しこの男は、二十歩も行かないうちに立止った。戸口に、黒い幕を垂れた、小さな居酒屋があったのだ。
「ふん」
彼は、何かを冷笑って、俯れたまま、その黒い幕の中に、潜り込んだ。内部は、がらんとして唯、向うの隅に、二人連れの泥酔者が、何か言い争っていた。外国米の囊のような着物を着た男は、椅子の上に倒れて、訳も解らない事を舌縺れした声で喚いていた。もう五十位いの、頭の禿げた瘠せこけた男は、その壁に靠れて立って、啜り泣きながら何かくどくどと友達を叱っていた。
悩ましい腐った酒の臭いは、重く、暗い壁の中に淀んで、毒草の滓のように、総ての物と人とを蝕んだ。
髪の長い浮浪者は、力ない步調で、ずっと暗い隅の方へ步いて行って、そこの壁の下の椅子に踞まって、自分の頭を抱えて食卓の上に俯した。
彼は、自分を支えている事も出来ない程激しい疲労に蝕まれていた。
その時、向うの隅の方に卓に吸い着いたように跼まって(※背を丸くして・かがんで)一人で酒を飲んでいた、汚ない外套を着た男が、突然風のようには入って来た異様な人間を長い間じろじろ見ていたが、軈て瓶とカップとを両手に鷲摑みにして、ふらふらする步調で彼の側へやって来て、黙って彼の前にカップを置いて、烈しい匂いのするウヰスキーを溢れる程注いだ。そして頽れるように、自分もその側に坐って、舌縺れしながら語り出した。
「さあ……これだけが、人間を、自分の霊を挘り食う地獄から、救い出してくれるんだ。ははは……」
その男は、両手で自分の頭を摑んで、嗚咽くような笑い方をした。
そして、彼にそのカップを押しつけてじっと再びその顔を覗くようにしたが、またぶつくさと呟きはじめた。その男はもう四十を越えた、骨ばった四角い顔をして、歯磨ブラシのような素張らしい、赭ちゃけた髭を立てていた。その小さい眼は、ひどく酔ぱらって黄色く濁って、尖った瞼の中で動かなかった。
哀しげに垂れ下った下唇は、断えず痙攣的に顫えていた。
「所が畜生! これにも金だ。何てい事だ。金の泥濘の中から、這い出す事が出来ないとは」
その男は忌々しそうに唾を吐いた。浮浪者は、気むずかしい顔をして、黙ってカップを乾した。
「君は、その……、何をする人かね」
ブラシ髭の、泥酔者は訊ねた。
「何もする事がないんです」
「用事が……。ふうむ。字は読めるかね、いくらか」
「ええ、いくらかは……」
「読める。と、所で今日の新聞を見ましたか。……、記者を一人さがしてるんですよ。つまり君のような人を」
「あなたは、何者ですか」
「僕あ、その新聞の編輯、……長といった風なものですよ。唯一人でやっている。……所でどうです。その気はありませんか、ね」
「私を、買うと言われるんですね。すると……」
「ふうむ。買うと、……まあそうですよ。君は話せる………然し……」
泥酔漢は、嵐のような息吹をした。
「世界中から金を掃出しても、人間はやっぱり泥濘から這出せないんだ。この獣は……。買いますよ。確に。君の名は、何です」
「藤田明三」
「藤、田、明三──、ふうむ。N誌に書いた人ですか」
「そうです」
「真物でしょうね」
彼は、顔をさしのべて覗いた。
「何の事だ。失敬、失敬、僕は、山口善助。……その貴方がまた、何故この有様です」
「僕は、昨日ペンも売ってしまいました」
「唯事じゃない。まあ僕の社へ行きましょう。そして、若し、若し、出来る事なら、あの新聞に手伝って下さい」
「私は、貴方に買われたんですから……」
「ヘ、ヘ、皮肉ですね。じゃあ何か一つ、極く短かいものを……」
編輯長は懐から、鉛筆と小さな原稿紙とを持出した。明三は、壁を見つめていたが、恐ろしい速さでなぐり書きを始めた。
編輯長は、首を振りながら声を立てて、ペンを追って読んでいたが、終いには呻り出した。
「ふうむ。素的(※素敵)だ。『俺の今、脊負っているものは、埃と、疲れとばかりだ』とね……」
彼は、二つばかり続けさまに手を叩いて足踏みをした。
「僕は、あのほら海の側の社に。あすこの二階で寝ころんでるんです。この洋服だけが、友人なんですよ。さあ。そこへ、行きましょう」
「いや私は、病人だから」
明三は、愁わしげに言った。山口は、その手を握りしめて振りながら、吼えるように言った。
「然う、然う。皆病人だ。哀しい惨めな病人だ。と、ね。じゃあ気のむいた時に、あすこへ。さよならさよなら」
彼は、半分ばかり残ったウヰスキーの瓶を、高くさしあげて明三の前に置いて、ポケットから、雛くちゃな二枚の青い小紙幣(※二十銭紙幣)を摑み出して卓の上に並べて、原稿紙を摑んでさっさと行ってしまった。明三は、そこで瓶に残った酒をすっかり飲み干すと、黙って戸外へ出た。
陽は落ちて、街巷の上には、夜の幕が垂れていた。彼は空地の角の、掲示板の側に立止って、ふらふらしている自分の頭に、話しかけた。
「所で、何処へ行く……?」
「おい。何をしているんだ。汝は……」
誰か背後から突然、嗄れた声で言葉をかけた。彼が振り返ると、そこに疲れきったような風をした年老いた巡査が立っていた。
「ええ、その落したんですよ」
「何を」
「些し、どうも売り残したものを、ね」
「何だ」
「自分のことですよ」
明三は、嚔をして呟いた。
「何だと」
巡査は、恐ろしい勢いで彼の前に進み出た。明三は、恭々しく一つ頭をさげて、さっさと步き出した。
「こら、こら、何所へ行くんだ。貴様は……」
「何所も、行く所が、ないんです」
「ない……?」
唇の尖った戯けた黒奴(※黒人)みたいな顔の巡査は、彼の顔を覗いていたが、軈てうっちゃるように呟いた。
「ヘ、何だ! 狂人か……。さあ、早く行くんだ。此所を真直に」
そして、手を振って暗い小路に步み去ろうとした。
「そして、どこへ行くんです」
彼は、執拗に巡査の外套を摑んで訊ねた。
「何所へでも……。S町の掃溜へでも。あすこには、汝のような人間が沢山いる」
「そこでは、どうなんです」
「煩さいな、そこで考えてみたらよかろうよ」
「何を」
「汝は、此所で、何をする所だったんだ」
「寝る所でした」
「寝る。土の上へか。白痴! 此所は、そんな事をする所じゃない。いいか、解ったか。そんな所じゃないんだ」
「はあ……」
「さあ、早く、步いて行け」
彼は、素直に首を垂れて、暗い路を步きはじめた。
「此所は、そんな事をする所じゃない」
彼は、暗がりで、薄笑いしながら巡査の言葉を繰返した。
「そうさ、その掃溜へやって行こう。何も、考えて見る事もない。死ぬまで生きている事さ……」
明三は、自分を冷笑った。そして薄暗い街灯の光の下でポケットを探って、揉みくちゃになった二枚の青い二十銭紙幣を出して、しみじみと見入った。それが、彼の今の全財産であった。
彼は、長い間暗い陋巷を、浮浪犬のように彷徨いた。いろいろな影のような、きれぎれな想念が、頭の中で溜息をついていた。彼は然うして、四時間も、訳の解らない街々を、さまよい歩いた。暗い空家の前に、長い間踞まっていたり、赤い煙草の吊看板を、じろじろ見ていたり、一軒一軒がらんとした汚ない家々を覗いて步いたりしながら……」
とうとう、掃溜へ来た。それは、S町の電車の車庫に近い空家のようながらんとした大きな木賃宿だった。その壊われかかった陰欝な建物は、石造の倉庫に靠れかかって暗がりに踞っているのだ。
彼は、その壊れてしまって立てかけてある扉の隙間から、中へ潜り込んだ。
破れかかったブリキ製の呼鈴が、疲れ果てたような懶げな響を立てた。
頭に黒い布片を捲きつけて、変な黒い囊のような着物を軀に纏った、軀幹の矮い妙な老婆が、薄ぐらい灯光の下で、此泊客の顔を気難かしそうに覗いた。
「泊るのかい。お前さんは」
老婆は、嗄れた低い声で訊ねた。若い男は、嘆息をついて言った。
「そうさ」
「金を、持ってるかい」
明三は黙って、揉みくちゃになった一枚の青い紙幣(※二十銭紙幣)を、彼女の掌の上に置いた。
「何故、早く上らないの、この人は、さあ」
老婆は、急ににやにや笑いながら喋り出した。
がらんとした家根裏が、吊された筵や襤褸布片で、区劃られた十幾つかの室が出来、その通路は地面であった。襤褸に纏まった人間の頭が、黒く床に吸着いていた。北隅の、かなり広い区劃の中には、五燭(※一燭はロウソク一本分の明るさ)の電灯がひかれていて幾人かの人が寝ていた。どこかの区割では、小さなカンテラが壁にかけられて、煤黄色な灯光が、暗がりで瞬いていた。その灯光の下には、瘠せこけた老人が踞まって何か独語しながら、両手を揉みこすっていた。
明三の連れて行かれたのは、その隣りの室で、その境界には、補綴だらけの南京米(※長粒種の輸入米)の囊の壁が、吊されていた。
「さあ、此所がお前さんの所だよ。ほら、蠟燭。あのお金の中から、代価はひいとくよ。それでもう、お前さんの金はないよ……」
彼は、頭から引挘るようにそのぼろけたソフトを脱いだ。彼はまだ若く、ほんの二十三位いであった。まるで疲れ傷ついた獣の鬣かなぞのような、頭髪の乱れかかった顔は、病人のように気味悪く青白く、その瞳は、濃い眉の下に、夜の沼の面のような、暗い不可解な愁わしさに沈んでいた。彼は、黙ってその暗い床の上に頽おれるように坐った。
老婆は跼まり込んで、その黄色く濁った眼で、この奇怪な若い男を不思議そうに見入りながら、呟いた。
「お前さんは、食物をもってるかい」
「いいや」
「じゃあ金は……」
「もってるよ」
「いくら位」
「二十銭」
「ちょっと、見せておくれ」
明三は、渋面をしながら、ポケットからとり出して、揉みくちゃな一枚の青い小紙幣(※二十銭紙幣)を、老婆の手の上に渡した。彼女は、丁寧にその皺を伸して拡げて見て蔑むような笑い方をして、彼に返した。
「お前さん、しっかり片附けておかないと、盗まれるよ。ふうむ、金だからね」
老婆はそしてまたじろじろと彼を見て溜息をついて言った。
「食物は……」
「いらないよ」
明三は、不機嫌らしく言った。
「お前さんの姓名……」
彼は、何か外の深い思いに沈んで言った。
「よく解らない」
「ふうむ、そうかい。じゃあ明日までに思い出すがいい」
老婆は、そして行ってしまった。明三は溜息を吐いて、長い間ぼんやり暗がりに坐っていて、軈て、床の上に、頭をつけて眠ろうとしたが、ふと頭を挙げて、その吊された壁の破目から隣りの室を覗きはじめた。
あの老人は、まだ坐ったまま、何か呟いていた。向うの壁の隅には、黄色いマントに纏って、頭を壁に靠せかけて、女が眠っていた。軀を曲げて、寝ているとも踞まっているともつかない形をして、青白い手を自分の胸の上に組み合せているのだ。
女は、苦しげに寝返りをして、俯にその顔を夜具の中に埋めてしまった。老人は、ちらとその方を見て、側へ寄って顔をすりよせて覗き込んだ。そして、その肩ヘマントをかけ直して、またそこを離れ去って、陰気な顔をして、黙り込んでしまった。
明三は、もう一度溜息を吐いて壁の下に跼まって寝てしまった。彼は、揉みくちゃになった紙幣が、歪んだ人間の頭になって、それが縊死をする奇怪な夢を見ながら、泥沼にでも辷り落ちるように睡眠の底に沈んで行った。
疲れはてた頭の呻めき声や、傷ついた霊の溜息が、死の国のように静った暗がりの中に、頭を擡げては、消えた。