血の呻き 中篇(19)
三五
──明三は、灰色な渇ききった地面に跼まっていた。黄色く、熱の為に乾き歪んだ貌をして、終日虚空に呻いていた陽は、今暗い夜の奈落に陥ちた。然し、空はその悪い熱に魘われて、瘧でも患っているように、熱の為に黄色ぽく腫れ歪んだ顔を地の面にあてて、低く呻いている。黙り込んでいる地も、その忌わしい熱の為に、乾き歪んでいるのだ。そこは、果てしもない、黄色い乾いた沙漠だ。悩ましい呻声のような、気味悪い熱をもった風が、地の面をよろばい流れる。生きているものは、微かな草の葉さえもない。唯、その熱に爛れた悩ましい黄色だけが、地と空との間に、汚れ腐った毒酒の滓のように、淀んでいるのだ。
彼は、不思議そうに四辺を見まわして、悲しげな嘆息をした。彼は、疲労と困憊とに、瘠せ衰ろえた哀れな軀で、素裸でいるのだ。喉は、埃の立ちそうに思われる程も渇ききって、もう唯一歩も前へ歩み出す事も出来ない。
彼は何所へ行くべき所も、帰るべき所もない、惨めな旅人なのだ。
雪子は、病衰ろえた軀で、よろめきながら、やっと彼の所まで追いついて来ると、もう自分を支える事も出来なくて、そこへ頽れてしまった。女は素裸で、その軀は熱の為に慄えているのだ。彼女は、乾ききった喉で、嗄れた声で、哀しげに呟いた。
「貴方は、何所へ行くの」
「何所だか、解らないの」
明三は、哀しげに呟いた。
「何故、私たちは、こんな哀れな姿で歩き続けなければならないんです……。私もう疲れてしまって、歩けないの……」
「僕は、知らない。唯此所に、こんなに足跡があるんだよ。きっと、皆此所を歩いて行ったんだろうと思うの……」
「皆って、誰……? あの娘のこと……」
「誰だか……。僕は知らない……」
明三は、泣かんばかりの声で言った。
「いいえ。私解ってるわ。あの娘よ……」
女は、彼の膝に顔をあてて、泣き出した。
「此所は、水もなければ、木蔭もないのに……。ああ、私は死にそうだ。今まで、道にあった恐ろしい骸骨は、あれは皆歩き疲れて死んだ人のでしょう……」
「そうだよ」
「ああ……」
女は、戦慄して彼の胸に顔をあてた。
「ね、私の所へ、帰って下さいな……」
「でも……」
「いいえ。あすこには、惨めなものではあったけど、木蔭もあったの。水も……」
「この先にも、あるよ。あんな所は……」
「あるだろうか。そこへ行くまでに私は、もう疲れて、死ぬ事だろう。ね、彼所は、近いのよ。帰って下さいな」
「僕等は、彼所へまた行くんだよ」
「あら……。何故」
「この恐ろしい沙漠の中で、唯、私たちは迷って歩いて、何度も同じ所ばかり歩いているんだ」
「何所にも、出口はないの」
「ない。此所より外に、私等の立っているべき所はないんだよ」
「じゃ。歩く事が、何になるんでしょう。ね、私たちの、先の場所へ行って、あすこに坐ってましょうよ」
「だって、歩かないでは、いられない惨めな約束を、私たちは脊負わせられて来たんだもの……。私たちは……」
明三は、忍び泣きした。二人は夕暮の空の下に、抱き合って泣いた。
「でも……」
彼女は、彼の胸に手をあてて、涙の溜った眼でその眼にしみじみと見入って、何か哀訴するようにして、然し言い出さなかった。──
明三は、その時哀しい奇異な夢から醒めた。
明三は、悩ましげに、そこらをみまわして、壁に向って溜息を吐いた。そして、殆んど自分にも解らない程の声で、何か呟いて、俯れた。
事実、そんなにも惨めな果てもない旅に、疲れたように疲れきっていた。そして、悲しげな殆んど泣くような、呻声を立てた。
「彼奴は、でなければ、何も彼も解って、何にも解らないふりをしているんだ」
誰かが、重苦しい声で言った。
「それに相違ない。薄気味悪い奴だよ……」
別な人が、ひそひそと言った。
「否、気味悪い所じゃない。恐ろしい奴だ。然し、彼奴は、何もし出かさないだろうよ」
「どうして……? 彼奴は、その気になれば、俺等よりも、もっと恐ろしい殺し方で、人を殺すかも解らないよ」
「然し、彼奴は唯自分を虐殺してるんだ。自分だけで、何もかも、苦しんでるんだ」
それは、あの年老った監視者の、嗄れた沈んだ声であった。
「何の事だ。それは……」
「何の事だか……。俺も、知らないんだが。彼奴が言ったんだ」
「叱! 彼奴あ、起きてるぜ!」
誰かが、聞きとれない位いの小声で言った。そのまま咡き声は断えてしまった。
明三は、慴えたように夜着の中に踞まった。
次の日も、靴修繕師の恐ろしい屍は、そこの川岸に投って置かれた。
濁った日の光りが、その惨めな骸を照した。夥しい数の蛭が群り集って、その血を吸い産卵した。
監視者等も、一言も此屍の事に就ては口をきかなかった。そして自分等とは、何の関わりもないもののように、小さな虫が死んででもいるように、それを見た。人夫等は、無論黙っていたが、ちらとそれを見ると、凍えたように縮みあがった。そして、顔を反けて力めてそっちへ行くまいとしながら、お互に眼を見合しては、慄える吐息をした。
夕方になると、八九羽の烏が、どこからか集まって来た。そして、悩ましげに啼きながら、屍の上を低く飛びまわっていたが、遂々そこに降り立って、黒い鋭い嘴で突きはじめた。
梟は、気むずかしげにそれを見て舌を鳴したが、手を振って追った。
「ほう……。畜生!」
「然し、この黒い死の鳥は、羽摶きをして些し飛んでは、忌わしい呪うような声で啼きながら戻って来ては、執拗にその屍の肉を啄んだ。
彼は、石を投げつけた。けれど、石塊は唯虚空に悩ましい音を立てて飛んで、落ちただけであった。一羽の烏は、自分の直ぐ傍に落ちた石塊を、ちょっと嘴で突いてみて、嘲るように黒い眼を光らして声を立てた。
梟は、何か呟きながら腹立しげにそれを見ていたが、黙って人々の所へ帰って来た。
次の朝、やせこけた、灰色をした大きな浮浪犬が、歯を鳴しながら、その屍の肉を貪り食っていた。ヴルドッグは、喚き声を立てて突喚した。犬は、何だか些しも理由が解らないといった風に哀しげに低く吠えながら、逃げた。
屍は、惨めに喰破られて、見るに耐えない程の有様であった。
「これを、埋めてしまわなくちゃ……」
彼は、人々の方へ向いて、譫言のように言った。犬は、長い間そこに蹲まってそれを見ていたが、誰かが石を投げつけると、のそのそとどこかへ行ってしまった。二時間もたたない間に、もうそこには何の事もなかったように、高く土が盛られて埋め立てられた。