血の呻き 下篇(6)
四四
次の日の午後、明三は線路に沿うてA町の方へ歩いて行った。彼は、雪子の、薬と果物とを買う為に宿を出たのだった。彼は然し、その事を殆んど忘れてしまう程も、いろいろな想念に虐まれて重い荷を脊負った人のように俯れて歩いていた。
彼は、慴えたように立止って、自分の歩いている所を見た。そして、自分から、二百歩ばかりも前を、ひどく跼み込んで歩いて行く、不思議な人の姿を見つけた。無論それが、誰なのか彼には解らなかったが、何か気味悪い運命の影像かなぞのように、その時の自分の想念に結びつけて考えた。彼は、その背後から、急足に歩いて行った。何か見えない、鎖で曳ずられてでもいるように。
その黒い、奇妙な影像は跣足で、殆んど跫音も立てないで、歩いていた。明三は、幾度も立止って、悲しげにその人を見て声をかけようとした。然し、また力なく俯れて深い溜息をついては、黙って歩いて行った。
灰色な濁った空が、重い痛む頭を地に着く程も垂れていた。地の上には、その悩ましい息吹が淀んでいるように思われた。
その影像が、Sの曲線に行った時、前方からB駅を出たばかりの貨物列車が、呻るような音を立てて現れた。
明三は、慴えたように立止った。影像のような不思議な男も、立止って凝然とそれを見ていたが、突然両手をあげて何か叫びながら真直に汽車に向って走り出した。明三も、続いて線路の上を何か叫びながら走り出した。
警笛は、続けさまに齷するような音を立てた。然し、その男が、まだ十歩も走らない間に、汽車は狂人じみた叫声を挙げながら、嚙み着くように、彼に飛びかかった。その、不思議な男は、轍の下で異様な音を立てて、約三碼ばかり曳ずられると、何かの塊のようになって、赭土の砂利の上へ放り出された。汽車は長い沈んだ泣くような警笛を鳴して、止った。
明三は、まるで頭の半分を喰いかかれでもしたように、茫然立止ってしまったが、急にわなわなと慄え出して、罪を犯したものででもあるように、線路を伝って十歩ばかり逃げ走った。然し彼はまた杭かなぞのように凝然と立竦んで、頭を垂れて力なくとぼとぼと、そこへ歩いて行った。
何所からか、鴉のように群って来た、人間の黒い頭が恐ろしく重なりあって、何か呻きながらその死人を団繞ていた。
明三は、ちらとその頭の間から、まだ生きている死人を見ると、低く呻いて後退りした。それは、恐ろしい形相をした老医師であった。右の足を下腹部から挘り取られ、その頭はめちゃめちゃに砕けている……。その血みどろな、泥にまみれた生物は、首を挘り取られた鶏のような異様な声を立てて喉を鳴した。そして、眼窩から飛び出て、黄色く腫れたような眼球をのろのろと動かした。その砕けた手の指を慄わして、微かに自分の顔の上で揺り動かしてから、何かに縋るようにふらふらとそこらを探して虚空を摑んだ。
明三は、人々の間から潜り込んで、その顔に触れる程自分の顔をすりよせて覗いた。そして、そっとその指に触った。その時老医師はその死んだ眼で凝然と彼の眼に見入って、息が絶えてしまった。
低く垂れ下った、汚れた覆布のような空の破目から洩れて来る、灰黄色な陽光の流れが執拗に、この凄惨な屍体を照した。
噛み合せた歯を露出して、その唇は齦に膠着し、瞼の上に粘着いた眼球は、汚れた粘々する泡かなぞのように見えた。その後頭部は、宛然膾のようにめちゃめちゃに砕けて、碧黒い血が地面に溢れていた。巡査と駅員とが、ひき挘られた片脚を拾って来て、屍の側へ置いた。ひき挘られた服の下に、血は汚水のように溢れていた。
青ざめた、煤煙に汚れた顔をして、茫々と髪を乱した機関師は、巡査に明三を指して、何か囁いた。そして、機関車には入って行った。
汽車は、すぐにまた悩ましげな気笛を鳴して動き出した。
巡査は、明三の前へ歩いて来た。
「お前は、何だ。おい。此男に何をしたんだ」
明三は、不機嫌らしくその人を見てから、慄える声で言った。
「私が、……? 此男に何をしました」
「ばか! 俺が訊いてるんだぞ! こら! 貴様は、此奴の背後から走って来たというじゃないか」
「走って来ました」
「だから、貴様、何をしたんだと、訊いてるんだ」
「何も、しません」
「貴様は、此奴を知ってるのか」
「知ってますとも」
「何故、知ってるんだ」
「何故だか……」
「ふうむ」
巡査は、恐ろしい顔をして、彼を睨んだ。
「此奴は、何をする人間か」
「前の、医師です」
「今は」
「今は、この通りです」
彼は、屍を指した。
「ばか! 医師から、死ぬまでに、何をしたかというんだ」
「やっぱり医師です。然し、此人はもう、他人所じゃなく、自分を癒す事も出来なくなってたんです」
「ふん、貴様は、うまい事を言いやがる。名は……」
「福島……」
「何所にいたか。年齢は……」
「S町の掃き溜めに。あの頭に黒い布片を捲いた老婆の宿に……。年は知りません」
「何だって、此奴は汽車に向って走って来たのか」
「汽車が来たからでしょう。でなきあ、こんな所を走る訳がありません」
「何うして走る必要があったんだ……」
「だから、汽車が来たからだと言ってるじゃありませんか」
「こら! 貴様は、何を……」
「じゃあ、屍に聞いてみなさい。私も、別によく知ってる訳じゃない」
「貴様は、気狂いか、それとも……。馬鹿奴! 俺は警官だぞ!」
「然うだと思います」
「ともかく、貴様、署まで来い。貴様には聞く事がある」
巡査は、蹙面をして呟いた。
そこへ、手に二つの石をもって、茂が、人々の中をくぐって来て頭を出した。そして、彼等を見ていたが、遂に明三に言葉をかけた。
「やあい。摑まったな」
「うむ。摑まったよ。お前、ちょっとあすこへ行って来てくれ! 菊ちゃんの所へ。お父さんが怪我をしたからって……」
「この屍骸が、然うか」
「うむ。死んだんじゃない。まだ生きてるんだ。走ってってくれ」
「よし」
少年は、仔犬のように、跳ねながら走って行った。
「それじゃあ、此奴の親戚があるんだな」
巡査は、明三を睨みながら言った。明三は、何も答えないで、再び屍の所へ跼まり込んだ。人々は、不思議そうに彼を見た。そして、何か呟いたり咡き合ったりしながら、そこらをうろついたり立止って見入ったりして、まるで死んだ蛇を発見た鴉の群かなぞのように執拗に、つきまとっていた。
磨師は、重たい靴で地を叩いて来た。少女は、彼に曳ずられながら、嗚咽って息を切らしながら走って来た。
少女は、一目父を見ると気を失ったようにそこへ頽れ込んでしまった。
「ああ、何うしよう……」
明三は、彼女の肩に手をかけたが、何も言う事が出来なかった。彼女は、明三の手に摑まって烈しく慄えながら泣き出した。
「貴様は、宿のものか」
外套の頭巾のような、だぶだぶした奇妙な顔の巡査は、洋服を着た磨師に、言葉をかけた。
「然うですよ」
磨師は、凝然と惨めにひき挘られた屍に見入りながら、不機嫌らしく答えた。
「この娘が、その親戚か……」
「然うです」
「外に、……」
「外に、何があるもんです」
「ふうむ。誰か引取人がないか」
「誰も。……要りませんよ。こんなに引ちぎった奴にやったらいいのに。そいつは、ソップでも。とる事だろう」
「こら!」
「はい」
磨師は、唇を尖らせて、巡査を凝視た。
「気を付けろ!」
「へえ。じゃあいらないのか。それじゃあ、私ん所で持ってきますよ」
そして、彼は、さっさと、何所かへ行ってしまった。
「貴様は……」
巡査は、呆れたように彼の後姿を見ていたが、跼まり込んで少女に言った。
「これは、お前さんの、お父さんだね」
菊子は、嗚咽きながら点頭いた。
「誰か、親戚はないのか」
少女は、明三を指した。
「然うか」
巡査が、再び彼に何か話かけようとした時、年老った黄色っぽいやせた顔の、警察医がやって来た。その人は、低声で何か巡査と話し合うと、ひどく黙り込んで死人を検べた。そして、その破れ歪んだ軀から離れて立上り、嘆息を吐いて、再び凝然とその屍に見入ったが、黙って一人で立去った。
磨師は、大きな煙草の空箱を、薄汚ない姿をした保険屋に脊負せてやって来た。
彼等と明三とは、その柩にこの破れ砕けた屍を入れた。仰向に軀を折曲げて、その顔を胸の上につけ、胸の上に、挘り取られた片足をのせた。その血みどろな足は唇に触れた。
老医師は、何か口叱言をでも言ってるように見えた。
磨師は、むやみにその屍を折り曲げて柩の中へ押込みながら、何かぶつくさ独言を言って烈しい音を立てて、箱の蓋に釘をうちつけた。
そして、まだそこを立ち去らない群集に呶鳴った。
「鴉奴! 何だってうろついてやがるんだ。屍の肉は、ちっとも、汝等にゃわけてやらねえんだ。焼場へ行って待ってろ。すっかり焼いて中毒らねえようにして、くれてやらあ……」
磨師と、保険屋とはその柩を担いだ。明三は、俯れて後から随いて行った。菊子は、恐ろしく蒼ざめた顔をして泣きながら、彼に摑まって歩いて行った。埃を吹き捲く風が、幕でもはためかすように、顔に乱れかかった。巡査は、四歩ばかり彼等に随いて来たが、そこで立止って何か訳の解らない口叱言を言って、駅の方へ引返して行った。
彼等がYの火葬場に来た時は、もう日が暮れてしまっていた。菊子は、一言も口をきかなかった。そして、何か頭でも痛むように青ざめた顔をして、弱々しく慄えた。
蒼黒い顔をした、丈の高い火葬番の爺が、突然そこの暗い建物の中から出て来て、彼等に声をかけた。
「やあ、先生。屍は、誰です」
「ほら、此娘《こ》のお父さん。あのお医師さんだよ。フロックの……」
磨師は、少女を指して言った。
「へえ。お医師さん。じゃあ、よくよくの事だ。とても癒らないほど破けてしまった事だね」
「そうだよ」
磨師は、蹙面をして、歎息をした。
明三は、煉瓦の竈の鉄の扉の下に置かれた柩の前に跪いてその人の為めに涅槃経を低声で誦した。磨師も、保険屋も、そこに跪いた。火葬番の親爺は、一寸頭を下げて、壁の方へ離れた。菊子も、明三の横の敷石の上に坐ってまた啜り泣きながら、ひれ伏していた。
明三は、読経を終ると涙を垂れて凝然と頭を俯れていた。そして、立上って後退った。
重い鉄の扉が開かれて、壊れかかった粗末な柩は、押込まれた。
「すっかりと、扉に閂をかけなくちゃ……。這い出すかも知れねえぜ……」
その時まで黙りこくっていた、保険屋が怯々と言った。火葬番は、顰面をして彼を見て扉に閂を差した。
菊子は、明三に摑まって慄えながら、凝然とそれを見ていたが、何かの発作でも起ったように慄え出して、彼の軀をしっかりと摑みながら、また声をあげて泣き出した。
明三は、暗い愁わしい顔をして、彼女の髪を撫でた。
「お父さんが、可哀想だ……。お父さんがいなくなった時から、私きっとこんな事になると思ってたのよ……」
菊子は、慄える泣声で言った。
明三は、慴えたように少女の顔を見て、その手を固く握りしめた。
「でも、お父さんは、死んだ方がいいんだわ……」
少女はまた、独言のように言った。明三は、彼女に詫るように頭を下げて、そこの敷石の上に跪いた。彼女は、凝然と彼を見たが、顔を反けてまた啜り泣いた。
彼等は火葬場の冷たい石畳の上でその夜を明して、次の日小さな骨甕を持って帰って来た。
「困った事だ。これは……」
扉の所に立っていた老婆は、蹙面をして呟いた。
「いや、婆さん。何もかもなくなった」
明三は、冷たい笑いを顔に泛べて言った。菊子は、声を立てて泣きながら、雪子の所へ走って行って、その手に摑まって、激しく慟哭いた。
「どうしたの。菊ちゃん。あら、貴方も……。何所にいたの……。私、昨夜は苦しくて、眠れなかったのよ……」
雪子は、寂しさに疲れたような青さめた顔をして、きれぎれに息を吐きながら言った。その顔は宛然暗い影にでも襲われた人のように、病衰えていた。
明三は、そっとそこへ骨甕を置いて坐って、彼女の手を握った。そして、しみじみとその眼に見入った。
「それは、何……? 菊ちゃんは泣いてるのね……。どうして……?」
雪子は、潤んだような力ない瞳で、答えを求めるように、凝然と明三の眼に見入った。明三は、責められたように、顔を俯れて、黙然としていた。
「どうして、私に何も言ってくれないの……。どうしたの。何か、言って下さいな。何か」
彼女は、身を悶えて、明三の手を振った。