血の呻き 下篇(9)
四七
荒廃した寺院は、柩のように寂然としていた。夜の明ける前の灰色な、微かな陽光の中に、時子は暗い壁に摑まって、わなわなと戦慄しながら、呻いていた。
「何うしたの。何う……。時さん……」
明三は、彼女を抱き起した。彼女の土気色して慄えている唇と、胸の上とには、吐き出された暗紫色の血が塗れていた。床の上にも、カップからまき散らされでもしたように夥しく蒼黒い血が吐き散らされていた。
彼女は、もう殆んど物を言う事が出来なかった。そして、銀灰色な、奇妙な色に光る眼で、凝然と彼を見て、何か物を言いたげに悶えて唇を慄わした。そして、わなわなと烈しく慄えながら、まるで恐ろしい鎖かなぞのように烈しく彼の胸にとり縋って摑まった。
「水、水を……茂」
茂は、カップに水を入れて来たが、そこへ潰れ込んで、声を立てて泣き出した。
「血を、血を……こんなに……」
少年は、指して慴えたようにきれぎれに、彼に言った。
明三は、カップの水を彼女の唇に注ぎ込んだ。女は、咽せて低く呻いたが、僅かにそれを嚥み下して、苦しい息を吐いた。
「今、い、ま……死、死ぬ、のよ……」
彼女は、嗚咽きながらきれぎれに、一言毎に苦しげな息を吐いて微かに言った。
「何故、何故だい……時さん」
明三は、泣きながら言った。
彼女の瞼からも、涙が溢れて頰に伝って流れた。時子は、もう一言も言う事が出来なくて、唯、唇を顫わして、夢の中の譫言のように、慄える呻めき声で二言ばかり、呟いた。
「ゆ、ゆる、し、て、……」
激しい痙攣が、彼女の肉体を襲って来た。女は、傷つけられた瀕死の蛇のように慄えて、彼の腕の中へ頽れ込んでしまった。そして、息が断えてその青ざめた、黄味を帯びた顔は、仰向に投返されて、彼の膝の上へ頽れた。
「ああ、姉やあ……」
少年は、叫び声をあげて泣きながら、女の屍に取縋った。そして、その腕を宛然引き挘ってでもしまうように激しく摑んで、叫び泣いた。
明三は、彼女の死んだ胸に接吻して、恐ろしく慄えながら、独言を言った。
「私は、解らない。私は……」
彼は、女を床の上に横たえて、自分の外套を脱いで、その上に被せた。そして、そこに跪いて、彼女の為に長い間何か黙禱したが、遂に立上ってそこらを見まわした。ウヰスキーの空壜の側に、暗い不安な黄色をした小さな薬壜が転がっていた。彼は、それを拾って、陽に透してみた。そして、それを衣嚢にしまって、今にも、その女が笑いながら起き上って来るかと、鈍い期待でも抱いているように、茫然彼女を見ていた。
屍は、悩ましく頽れ落ちた花のように横たわっていた。
その時まで、泣き伏していた少年は、漸く頭をあげた。
「何故、もう些し早く、知らしてくれなかったんだ」
明三は、愚かしい調子で言い出した。
「だって、此女がお前を呼んで来てくれと言うとすぐ、俺は走り出したんだもの……。ほら、これを……」
そして、少年は、左の手に握りしめていた、小さな二枚の紙片を彼に渡した。空色した厚い洋紙に、鉛筆で書いた遺書であった。その一通は、この海港の都市で、ある小さな銀行に勤めている彼女の一人の年老った買主にあててあった。
私の胸の中の、貴方と、
抱き合って、この毒を唇
にあてる。
愛するF 時
明三のものにはそれだけが、ひどく乱れた字で書かれてあった。明三は、幾度も繰返して、それを読んだ。
「どうして、これを早く見せてくれなかったんだ」
「だって、明日、これを持って行ってくれって、言われたんだ。だけど、俺あ妙だからちっとも寝ないでると、此女は、夜明方になってから、ひどく苦しみ出して、そんなになってから、今すぐあの人を──お前を──呼んで来てくれって言ったんだ」
少年は、泣きながらくどくどと言った。
「然し、どうした事だろう」
ハ、ハ、ハ……」
茂は、突然笑い出した。
「お前は、やっぱり馬鹿だな。そんな事を。もう此女は、死んだのよ」
「だから、どうしてかと、考えてるんだ」
明三は、然し何か別な事を考えてでもいるように、鈍くさく呟いた。
「ふん、じゃあ考えてみた方がいいや。俺は、そこへ、銀行へ行って来る」
少年は、彼からその手紙を引たくって、走り去った。彼は、凝然と立っているに忍びない。で身を踠くように、走った。明三は、茫然屍の側に坐っていた。然し、彼は、何を考えてもいなかった。無論自分の考を纏める事も出来ない程惑乱して、宛然毒でも呷った人のように青ざめた顔をしていた。
彼は、そうっと手をのべて、屍の瞼に触ってみて、またわなわなと慄えた。それから、自分もその女の側に横たわりながら、その顔にかかっている髪をかき上げて、慄える指で撫でた。そして、ずっと顔をすりよせて、何か咡くようにその頭を抱いて泣きながら無限の哀愁に虐まれてでもいるような、暗い惨めな顔をして、涙を流した。
涙は、死んだ彼女の頰に滴って、床に落ちた。彼は、恐ろしく長い間、そうしていた。彼には然しその間、時間と言うものがなかった。いろんな傷ましい想念が、頭の中に乱れ混って慄えていた。
帰って来た茂は、慴えたように扉口で立止ってしまった。そして、怯々と彼の側へ歩み寄りながら慄え声で言った。
「お前、どうかしたのか」
そして、そっと彼の肩に手をかけた。明三は、顔をあげて涙の溜った眼で彼を見た。然し、一言も口をきかないで、起上って壁の方へ後退った。
「今、あの人が死骸を引取りに来ると言ったよ」
「然うか。じゃあ行こう……」
明三は、陰気な沈んだ声で言った。少年は、喰入るように彼を見つめていたが、急にまた嗚咽て泣き出した。
「俺は、俺は、もう行く所が、無い……」
「そとへ行こう……」
明三は、彼の肩に触った。
少年は、何も答えなかった。そしてだんだん激しい声で泣きながら、身を悶えた。
明三は、悩ましげに長い間彼の側に立っていたが、遂にそこを離れ去って出た。
戸外へ出ると、彼は襯衣の衣嚢から、彼女の贈った小さな時計を出して耳にあてて、その音を聞いた。それは、彼女の慄えている心臓のように、慴えた弱々しい音を立てていた。
明三は、それをじっと見つめて唇にあてたが、力なくまた懐中へ納めた。