血の呻き 上篇(9)
九
風は煙のように砂塵をまきあげてのろのろと地の上を這い流れた。軒の低い古びた家は、扉をしめて沈黙って何か廃墟のような、空虚な佗しさの中に踞まっていた。
明三は、軀を屈めて、その中を歩いて行った。
或辻を曲ると、恐ろしく泥濘のように乱酔した、靴修繕師に出会った。彼は、いきなりひょろつきながら明三の肩を摑んで、舌縺れする声で喚き立てた。
「さあ、見つけた。見、つけ、た……。どこへ、逃げたんだ、お前は……」
そして、むやみに足踏みして、地面を蹴飛した。
「ふうむ。いい靴だね。赤革だね」
明三は、何か別な事を考えながら、苦い顔をして言った。
「そうよ。これは、そ、その、ミ、ミ、ト、ロフ中尉が、穿いてたんだ。ロシア革だぜ……」
もう、すっかりぼろけて、踵のとれてしまった、彼の股までも届くような、不格好な大きな長靴を、彼は穿いていた。
「大したものだね」
明三は、悩ましげにそれを見ながら薄笑いした。
「そうさ。ミ、ト、ロフ、フ中尉の穿いたものだぜ」
靴屋は、また繰り返した。それは、何時か明三が彼に話して聞かせた、シベリアの監獄につとめていた、年老った中尉で、自分の長靴までも売り飛して飲んでしまった男だった。
靴修繕師は、またそのミトロフ中尉の長靴で地面を蹴飛しながら、シベリアへ流刑になった懲役人等の唄を、きれぎれに嗄れた声で、でたらめに喚き立てた。
「どうしたんだい。小林……」
「飲むんだ」
「だって、お前は酔ってるよ。ひどく」
「何だと、ばか奴! 酔ってる奴は飲んでいけないと、誰がきめたんだ。さあ来い」
二人は、縺れ合って居酒屋へ行った。居酒屋の、戸口には、板の扉が立てられていた。
「何だ。扉を閉めやがったな。獣奴!」
靴屋は、ミトロフ中尉の長靴で、その扉を、蹴飛しながら怒鳴った。
「酒だ。酒だ。畜生! あけろ」
然し、扉があけられると、彼はまた、嗄れた声で喉一杯に、訳の解らない歌をどなりながら、壁に摑まっていたが、どたりと音のする程床板の上へ頭をぶつけて潰れ込んでしまった。
「おい。どうした、小林」
明三は、その首に手を捲いて起そうとした。然し、このミトロフ中尉の古靴を穿いた小男は、そこの床に額をつけたまま、大声に口小言を言いながら、鼾を立てて眠ってしまった。そして、時々に不意に切歯しながら頭をもたげて、馬鹿げた唄を歌って、手を延して何か探すように、そこらをかきまわした。彼は呆然そこに立ってそれを見ていた。
「それは、もう、そのまま置いた方が、いいんですよ」
その時まで、黙りこんで見ていた、唯一人の客が彼に言葉をかけた。
「そうですか」
「さあ、此所へ。まあ一つ……」
然しもう、その片眼の男の瓶には、ほんの僅かの酒が残っていたばかりだった。
「ウヰスキー」
明三は、その時彼の前に来て、変な眼で彼を見ていた、酒屋の亭主に言った。
「お前さんは、その……何をする人ですか」
「私……? 看板屋です」
「へえ。私を、忘れましたかね」
その片眼の老人は、彼の前に、顔をつき出した。
「無論知りません。貴方は、何者ですか」
明三は、彼の青みがかった、暗い片方の眼に見入りながら、ぶっきらぼうに答えた。
「ふうむ」
その男は、啜るようにウヰスキーを飲んで嘆息した。そして長い間、壁に頭をむけて黙り込んだ。明三は、苛々した。もう二分もその男が黙っていたら、立上ってそこを出てしまうかも知れなかった。
「ハ、ハ、ハ、ハ、……」
老人は、突然に、その食用蛙のような唇をあけて笑い出した。
「あの、ほら、雪子の、父です」
彼の顔を、まるでその心を一一計量器にでもかけているように執拗に見ながら言った。
「ああ、然うだった。思い出した。私も、知ってますよ」
「ふうむ。所で、貴方は、私を悪人だと思いますか」
「決して、あなたは、きっと神様のような人間でしょう。
「へ、ヘ、随分あなたも、棘をもってます、ね……」
老人はまた薄笑いした。
「然し、まったくあの娘の為には私も、苦労しました」
「然うですか。つまりどんな」
「此、老耄れた軀で働らいて、あの死にかかっているものを、養ってるんですよ」
「あの娘も、早く死ねばいいのに、ね」
「間違っても、そんな事を言わないで下さい。私はこれでも、悪戯にあれを育ててるんじゃないんです。私は、悪戯に人の首に縄をまくような人間じゃないんですから」
「ハ、ハ、ハ、ハ、……」
明三は、気味悪く笑い出した。
「どうしてまた、あなたはそんなに真面目なんです」
「あの娘が、可愛いから……」
明三は、殴られでもしたように黙り込んでしまった。そして、貪るようにむやみに、ウヰスキーを呻った。
「父親が、娘を可愛がっては、悪いものですか」
老人は、暗い歪んだ顔をして、言い出した。
「…………」
彼は、答える事が出来なかった。そして、じっと苦しげに、この老人を見た。
「あの、老耄れ医者は、悪魔だ、獣だって吐しあがった。俺が獣なら……。畜生! 然しあの娘まで……」
老人は、遂に欷歔をはじめた。明三は、彼の肩に手をかけた。然し、彼は、こんなにも苦しい惨めな人間の泣声を遂ぞ聞いた事もなかった。彼は、一語も言う事が出来なくて、唯惨めに唇を慄わした。
老人は、頭も挙げないで、泣いていた。明三は、たまらなくなって、そこを立上った。そして、そっと忍び足に盗人のように、逃げ出した。
彼は、両手で、釘ぬきででも挟んだように自分の頭を摑んで、ふらふらと路を歩いていた。
褐黄色な残照が、腐った苦い酒の滓のように、地の上に淀んでいた。宛然暗渠の壁のように、汚れ壊んだ家々の壁が、今にも彼の頭の上に頽れて来そうに思われた。
彼は、舌縺れしながら、低声でポオの詩をきれぎれに唱った。いや寧ろ呻ったと言う方が、適当っている。そして、ふらふらと、自分の頭を揺り動かしながら、欷歔くような嘆息をした。
明三は、立止って電柱に額をあてて、熱い息をついた。蛙の子のように、濁った陽光の中に躍っていた少年等が、彼をとりまいた。
「いけない。何だ汝等は……あっちへ行け」
然し、彼等は何か怒鳴って笑いながら、執拗く彼につきまとった。彼はまた歩きはじめた。隧道のような暗い小路の中からまるでマッチの棒のように痩せこけた男が、出て来た。
「お前は、おい。マッチの棒だな」
彼は、その人間に言葉をかけた。
「マッチの棒で御座ります」
「折れた、マッチの棒だ」
彼は、溜息をついて言った。
「折れた、マッチの棒で御座ります」
素直な乞食の老爺は、そう答えた。
「へ、へ、何だってそんなに俺を見るんだ」
痩せこけた、その男は溜息をついて行ってしまった。彼は、また、ひょろひょろと歩き出した。すると、急に道が歪んでしまって、恐ろしい壁のような峻しい坂になったように思われた。彼は、倒ってから手をついて起上った。そして、四這いになって這い上ろうとしたが、指が蛭のように、路の土に吸着いて離れなくなった。そして、彼は地面へ潰れ込んでしまったのだった。
長い間を経てから、暗がりの中から、幽霊のような奥様風の人間が三四人現れた。彼等は、この酔ぱらって自分を路上に抛棄してある人間をせり売しはじめた。歯を露出して、いがみあいながら、彼等は、値段の事で争そった。
遂、一人の気味悪い顔をした女が、彼を手に入れた。彼女は、この泥濘のように酔い痴れた男を、自分の腕の中に抱いて歩きはじめた。
明三は、そんな訳も解らない半睡の状態で、どこかへ運ばれていた。
彼は、窖のような、狭い隙間へ横たえられた。
闇の中から恐ろしい妖獣が、のろのろと妙な形の頭を擡げる。彼は、慄え出した。然し、すぐに、どこも逃れる事の出来ない坑の中で、それに自分の軀がすっかりだめになっている事を覚った。それで、跪くのをやめた。その生物は、彼の首に、蛇のような腕を捲きつけて、気味悪い粘つく唇をつけて音を立てて、血を啜りはじめた。
それは、蛭の唇のように、気味悪くむず痒かった。恐ろしい蜘蛛のような形の妖獣は、ぬらぬらした素裸の膚で彼を圧えて、不気味な足を、彼の軀に縋みつけたまま時々頭を擡げて白い歯を露出しては気味悪く笑った。そしてまた頭をつけて、歯を鳴して呻きながら彼の肉を、嚙み破った。彼も、その悩ましい痛みに、発狂したようにげらげら笑い出した。──
黎明の、溜息のような薄光りが、どこかの隙間から忍び込んでいる。髪の長い、白い悩ましい手を持った生物が、彼の軀を抱いて、眠り疲れている。
彼は、痛む眼でそれを見た。
明三は、怖えたように戦慄した。
然し、その濁り乱れた頭はただきれぎれに、それ等のものを意識しただけで、疲れてしまって、何も考える事が出来なかった。その生物は、腫れあがったように見える、悩ましい顔を、彼の顔にすりよせていた。
明三は、力を入れてそれを見ようとしたが、暗黄色の布に掩われでもしたように、眼が眩んで来た。そして、再びそこに頭を垂れて、眠に陥ちてしまった。
明三が、眼を覚した時は、歪んだ破目のような窓から、埃ぽい日光が流れ込んでいた。全身の肉を恐ろしい手に揉まれたような、疼痛に似た倦憊が、頭の中にまで蝕っていた。縞のように流れている日光を見るとぐらぐらと眩暈がした。彼は、弱々しい嘔吐を催したような溜息をした。女は、彼の首に手を捲きつけて、その顔をすりよせていたが、その時ふと眼をあけて、顔を合せて、薄笑いした。
明三は、全身が痺れて息づまるような気がされた。それは、あの向日葵草のような悩ましい女であったのだ。彼は、体を跪くようにして、寝返りした。
殆んど、三角形をした屋根裏の、壊れた細長い室で、彼等をとりまいて、埃に塗れた、壊れた柩や、灯籠や、その他のいろんな葬具が折重なっていた。
「此所は、どこなの……」
「D寺」
彼女は、背後から彼の肩を抱きながら言った。それは、丘陵の上にある、浄土宗の廃寺であった。
「何故、こんな所へ来たんだろう。僕は」
「此所は、私の巣よ……」
「へえ。偉いもんだね。この鴉は巣をもってるんだね。それにしても、何時、この餌を見つけて来たの……」
明三は、重い頭で悩ましく薄笑いしながら、眼に涙を溜めて言った。
「昨夕は、死ぬ程酔っててね」
「…………」
「道路へ寝てたのよ」
「ふうむ。それを拾って来たの」
「拾って? そうじゃないわ。ほら、サーベル……おまわりさんが、発見て騒いでるの。だから、これを私に下さいって、貰って来たのよ。だから、ね。だから私の所有なんだよ。貴方は」
彼女は、彼の体を抱きすくめるようにした。
「ふ、ふ、……。じゃあ、これは、俺の所有じゃないのかね。然し誰だいあすこへ落ちてるのを見つけて、せり売を始めたのは」
「誰も、そんな事をしやしないよ。何を言ってるの」
「そうかな。然し、誰が、俺をあすこへ投げたんだろう。
「貴方が、さ」
「然うじゃない。俺は大事なものだから、盗まれたりしちゃ困ると思って、ちゃんと傍の方へよせて置いたんだ」
彼は、懶げに独言のように言った。
「こっちへお向きってば」
彼女は、恐ろしい力で、彼を、自分の方へむけた。そして、彼の眼に見入りながら、額を指でつついた。
「額が、痛い……?」
彼は、哀しげに黙って、彼女を見つめていた。
「二人で死に度い」
女は、炎のような眼をして言った。
「ハ、ハ、ハ、ハ、……」
彼は、空虚な声で笑った。
「可笑しいのかい。じゃあやっぱり死ぬよりは、寝ていた方がいい……? 二人で、抱き合って」
「死ぬよりは、いい……か」
彼は、呻くような声で言った。瞼の裏には、熱い涙が溜っていた。
彼女は、恐ろしく黙り込んで、悩ましげな息を吐いていたが、突然、発狂したように、恐ろしい力で襲いかかって、彼を抱きしめた。その体は、恐ろしく妖怪のように、大きな向日葵の花のように、明三を包んだ。明三は、魘われたようにその花の息吹の手に頭を垂れた。
重い、妖魔のような生きた花は、明三の胸を締めた。彼はその褐黄色に燃える恐ろしい花の唇に圧されて、炎のような息吹に、息づまった。そして、眩暈がして、その妖魔の花の中に、気を失って頽れ倒れたように思ったのだった。
…………明三は、恐ろしい花の妖魔に血を啜られたようになって、投げ出された。
彼女は、執拗に彼の首から手を離さないで、嗚咽のような息づかいをした。その顔は、突然疲れ悩む、不気味な黄色い衣のように、彼の上に頽れかかっていた。明三は、病人のように呻いた。その頭は、黄色い花の息吹と、毒々しい妖気とに、痺れ痛んだ。そして、戦きながら、汚れた花の瞳から眼を反すことも出来なかった。そして彼は焼け爛れた鉄の床にでも横たえられているような恐ろしい顔をしていた。
長い間異様な沈黙が続いた。
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黄色く汚れたような日光は、物の隙から彼等を覗いて嘲笑っていた。
明三は、夜着の中へ跼まり込んで頭を隠して、泥濘へ陥ち込んだ泥酔漢のように惨ましい睡眠に陥ちた。
──彼が、眠から眼覚めた時には、彼女は其所にはいなかった。彼は、のろくさと四周をみまわしながら、きれぎれに何か考えはじめた。然し、総ての想念は皆、毒々しい黄色い花弁のように、ばらばらに唯彼の頭の中を這いまわって蠢めいただけであった。
彼は、ひからびた嗄れた喉で、呼吸をしながらあの暗い壁の下に吸着いて、死んで行く花のように青ざめた娘を思い出した。彼は、遽に戦きはじめた。そして、だんだん頭をさげて、果ては夜具に顔を埋めて、欷歔し出した。
然し、その青ざめた、日が暮れたら散ってしまいそうなうなだれて欷歔いている、哀れな弱々しい白粉草の蔭から、日の光りをぎらぎらとうけた、気味悪い黄色に輝く、向日葵が、悩ましい炎のような瞳で、彼を見つめた。二つの花は、生物のように、彼の頭の中に物狂わしい息吹きをしていた。
彼は、すっかり混乱した頭で立上った。疲れきった頭は、ぐらぐらと眩暈がして、倒れそうだった。彼は、ふらふらしながら、出口を探した。
どこかの、柩の蔭からでも、あの蛇のような腕が、這出てからまりつきそうに思われた。然し、女は、どこへ行ったのか、その微かな呼吸さえ聞えなかった。
この空洞とした廃寺は、死の国のように寂寞としていた。
彼は、ひどく鞭うたれて、こき使われた馬のように、胴慄えしながら、歩み出た。その瞬間、何の理由もなく、あの薄暗がりに咲いている、弱々しい花の側に踞まっている、あの老医師が、たまらない程嫉ましく思われた。そして、恐ろしい爪をひそめた黒い手をさし延べている、悪いもののようにして憎んだ。
「彼奴は、黒い唇をさし延べて、毒の息吹をかける。地獄の呪いを咡くのだ」
彼は、耐えがたくなって、ぶつぶつと老人の幻に毒づいた。