血の呻き 下篇(7)
四五
忍足に、──突然時子が、は入って来た。宛然、その破れた壁の中からでも現れたように。彼女は、そして、そっと壁に寄って殆んど瞬きもしないで、彼等を凝視た。彼女は、汚れた衣服を着て、宛然病疲れた人のような青ざめた顔をしていた。彼女の背後から、奇妙な顔をした茂が、やはり跫音を忍ばせては入って来た。
明三は、彼女に気がつくと、幽霊でも見るように戦いた。そして何か言おうとして唇を慄わしてまた黙り込んで、凍り着いたようになった悲しげな眼で、彼女を凝視た。時子は然し、沈んだ顔をして、怒りに燃えてでもいるような恐ろしい眼で彼を見て、一言も口をきかなかった。
雪子は、顔をねじ向けて彼女を見た。そして、ひどく慴えたように瞬く間に草の葉かなぞのように青ざめて慄えながら、きれぎれな呻声を立てた。
「御免なさい。──」
時子は、その時始めて唇を開いた。些し慄いを帯びてはいたが、沈んだ物静かな声で言った。
「貴女、おかげんが悪いんですって。どうなの……」
雪子は、夜着の中から再び顔をあげた。その顔は、宛然死人のような臘色(※やや黄味がかった灰色)をして、瞳は炎のように燃えていた。そして、惨めな弱々しい、きれぎれな声で言った。
「ええ、もうじき、死ぬでしょう」
「どうして……」
時子はその枕許まで進み出て、冷たい声で訊いた。
雪子は、乾びた喉で苦しげな呼吸をした。二人の女は、青ざめた気味悪い顔をして、熱した針のような視線で相互の瞳に見入った。
その時まで壁に吸着いて、茫然立っていた茂が、突然変な声で笑いながら、唇を尖らして言い出した。
「何うした。あの死んだ父さんは……」
明三は、脅かされたように彼を見て手を振った。
「何うしたんだ」
明三は哀訴するように彼を見たが、茂は関わないで喋り立てた。明三は、そこに置いた妻を指した。
「ふうむ。そりゃ骨かい。焼いたんだな……」
「死んだ……? 誰が死んだの……」
雪子は、力ない声で顔を反けて明三に言った。
「あの、お医師さんだよ」
白痴の少年は、薄笑いしながら言った。
「黙っといで、黙って……」
菊子は、泣き汚れた顔で、彼に手を振った。
「だって死んだじゃねえか。汽車にひかれて……。忘れたのか……。ほら、お前に教えに来たじゃねえか。俺が……」
「ああ、どうしよう。真実……」
雪子は、哀れっぽい泣くような顔をして呟いた。
「何も、私には言ってくれないのね……」
「だって、姉さんは……」
菊子は、何か言おうとしたが、然し急に口を噤んでしまって、また啜り泣きし出した。
「だって、それは、反っていいんでしょう。貴女に……。そのお医師さんは、可哀想だけど……」
時子は、毒々しい笑いを泛べて些しずつ雪子の胸に針をでも刺すように言った。
「何故、いいんです」
雪子は、腹立しげに、叫んだ。
「何故だか、そりゃあ、私の知らない事だけど……」
時子は、この泣いている女を意地悪く虐むような、恐ろしい笑いを泛べたまま言った。
「何故、貴方はそんな事を言うんです」
明三は、力ない声で苦しげに時子に言った。
時子は、黙って腹立しげに室を出た。明三は、俯れて彼女の後からついて行った。
彼女は、暗い通路の壁の下に立って今にも泣き出しそうな眼をしていた。
「あの時計を、持ってて……?」
彼女は、ひそひそ声で訊ねた。
「ええ」
「然う。飲んでしまった事かと思った……」
彼女は、寂しく微笑した。
「一寸、私にあの音を聞かせて下さいな」
明三は、襯衣の衣嚢から取出して、黙って彼女の耳にあてた。彼女は、素早く彼の首に手を捲いて、その唇に接吻した。
「ね、貴方の胸の、心臓の所へあてといて下さいな。何時までも……。いいでしょう」
明三は、それを再び襯衣の左の衣嚢へ入れて、弱々しい声で言い出した。
「然し、何故だい……。こんな……」
時子は、燃えるような瞳で、彼を凝視たが、黙って顔を反けて雪子の所へ帰って行った。
明三は、何か言おうとするように唇を慄わしたが、また俯れてその後について行った。
彼女は、そこへ行くと、急に冷やかな薄笑いをして、嘲けるように言い出した。
「……じゃあ、これは、私の言って悪い事……?」
ハ、ハ、ハ……」
茂は、突然に空虚な大声で笑い出した。明三は、脅かされたように彼を見て、唇を慄わした。
「ああ、あ、いやな世の中だ」
雪子は、泣くように言って、また夜着へ顔を埋めてしまった。時子は、恐ろしい笑いに毒々しく顔を歪めたが、そっとその病疲れた女の手を握った。
「苦しいでしょう……」
青ざめた唇をして、恐ろしい咡声のように言った。
「ああ、恐ろしい冷たい手だこと……」
雪子は、宛然死の手にでも、手を握られたような、慴えた声で譫言のように言った。
「苦しいの……。貴女に、然うして手を握られる事が……」
雪子は、低い慄える声で然し意地悪く呪うように呟いた。時子は、汚ないものでも摑んでたように急いでその手を離して、びくびく唇を動かしたが、また黙ってやき着くような眼で凝然と明三を見て後退った。
「姉や、行こう……。此所は、お前のいる所でないんだ……」
白痴の少年は、時子の袖を摑んで言った。
「然うね。ああ、行こう。さよなら。そして、貴方も……」
彼女は、再び刺すような眼で明三を見た。明三は、わなわなと唇を慄わせたが、何も言わないでいた。彼等は、遂に去った。
彼等の姿が消え去ると急に、雪子が耐えきれなくなったように激しく明三の手を摑んで声をあげて、泣き出した。
「あの女が、何しに来たんだか、私は、皆解ってるの……。せめて貴方は、私の死ぬ間だけでも、此所を離れないで、下さい……ね。……ね……」
明三は、泣いている幼児をでもなだめるように、彼女を抱いてその髪を慄える手で撫でて涙を拭ってやった。
彼女は、彼の胸に抱かれたまま、嗚咽りながら、血を絞るような声で呟いた。
「私は、そんなに、皆から憎まれて死ななきゃならないんですか。ねえ。あなた……」
明三は、唯俯れて一言も言わないで強く彼女を抱いていた。
「菊ちゃん」
「そんな。……姉さんは、そんな事を……。私は、知らない」
少女は、立上って室の隅へ行って、暗い壁に顔をあてて忍び泣きし出した。