血の呻き 下篇（10）
四八
明三は、絞首架を負う者のような、哀れな俯れた姿で宿へ帰って来た。
雪子は、疲れ果てたような眼を壁に瞠いていたが、彼がは入って行っても、然うしたまま黙っていた。明三は、叱られるように、そこに跪いた。
「あの女の所に、いたんでしょう……」
長い間を経てから、彼の方へ顔も向けないで、彼女は痙攣た声で言った。
「あの女の所に……。然うです。あの女は、死んだんです」
明三は、吃りながら、慄える声で言った。
「死、死んだ……。死……。ああ、何だってそんな事を……。私だって、もう死ぬのに……」
彼女は、慄える声で独言のように言ったが、急に腹立しげに叫んだ。
「嘘、それは……。嘘よ……」
明三は、痺れたような顔をしたが、一言も物を言う事が出来なかった。
「貴方は、私の、死ぬのを待ってるものだから、……そ、そんな……事を……」
遂に彼女はきれぎれに呟きながら泣き出した。
菊子は、何所かから、息を切しながら走って来た。そして明三を見ると慴えたように立竦んだが、きれぎれな早口で叫ぶように言った。
「寺の、小母さんが、死んだんだって、ね……。兄さんは……」
「知ってるよ……」
明三は、弱々しい声で言った。
「嘘！ 嘘なんだわ……。皆、そんなこと……。菊ちゃんは、何所に、遊んでたの……。そんな話を聞いて……」
雪子は、身悶えするように言った。
「私、……兄さんを、索ねて歩いてたのよ。そして、あの茂に……」
「いいえ、兄さんは、もうずっと前に帰ってるのよ」
少女は、悲しげに黙ってしまった。雪子は、嗚咽きながら、意地悪く言い続けた。
「そして、私、私には、薬も服ましてくれないのよ……。私……」
「姉さん、堪忍して……ね。私悪かったの。私」
菊子は、おろおろしながら、泣くような声で言って、すぐに散薬を出した。雪子はまた、オブラートが破れたと言って、泣いて、少女を苦しめた。事実、それは自分の歯で破ったものなのに……。
そして、菊子の飲ましてくれた水に咽せて、それを手で押のけて、哀れっぽい声で言い出した。
「皆、私を、早く死ねばいいと思うから……。こ、こんなに……」
「そんな、姉さん……。然うじゃないんだけど、だって……私……」
菊子は、壁の方へ向いて、両手で顔を掩うてしくしく泣き出した。
「貴方は、もう私には、口もきいて下さらないのね……。そして、そして……」
暫らくしてから、雪子は、涙の流れる顔を振り向けて、黙って俯れている明三に言いかけた。明三は、この惨めに悶えている女の手を、固く握りしめてその上へ涙を滴した。
「雪さん……。そんな、そんな……」
然し、彼は、もう言葉を続ける事も出来ないで、唇を慄わして瞼に満ちた涙の底から、彼女を凝然と見つめた。
夕方になると、雪子は異った人のように、静かになった彼女は、明三の腕の中で、嗚咽きながら、不安な眠りに陥ちて、短い眠りから覚めると、青白い顔をあげて、凝然とそこに坐っていた彼を見て、弱々しい声で言った。
「あの女は、真実に死んだんだわね……」
「真実に……。毒を服んで……」
明三は、彼女の眼に見入りながら言った。
「私、今会ったの……」
雪子は、寂しい顔をして言った。
「会った。……？ 何所で……」
「何所だか知らない、暗い所よ……。あの女は、青ざめた顔をして、唇が血みどろになってるの……」
彼女は、重い頭痛でもするように、そこで口を切って低く呻くような息を吐いた。明三は、慴えたように、彼女の眼に見入ってわなわなと慄え出した。
「貴方、あの女の所へ、行かないの……」
暫らくしてから、彼女は言い出した。
「…………」
明三は、何か考えに沈みながら言い出した。
「行ってらっしゃいな。そして、私を悪く思わないようにって、……そう言ってね。あの女に」
菊子は、涙ぐんだ眼をあげて、訊ねた。
「誰に……」
「あの女によ……」
「だって、死んでるのに」
「でも、解るのよ。いいの……。言って下さいな……」
彼女は、遠い所を見つめるような眼をして言った。明三は、物思わしげに、彼女の顔から眼を離さないで黙っていた。
「でも……済んだら、すぐ帰ってね。私も、寂しいのよ」
「ええ」
明三は、愁に沈みながら、何か思い惑っているように立上った。そして、暫時そこに立っていたが、遂に歩き出した。
然し彼は、宿を出て一つの街角を曲らないうちに、葬儀会社の黒塗の霊柩馬車に出会った。老耄れた、長く毛を垂れた瘠せた灰白色の小さな馬が、それを挽いていた。
明三は、立止って路傍に避けて俯れた。
その馬車の後から、──声をあげて泣きながら跣足で走って来た茂は、彼を見つけると、その手を摑んでむやみに引ぱった。
「これが、あの女だよ」
「然うか」
「行こう」
「何所へ行くんだ」
「焼場へ……」
「俺は、後で行くよ。それじゃ」
明三は、沈んだ声で言った。
少年は、そのまま彼を捨てて走り去った。
彼は、二十歩ばかりその後をついて歩き出したが、また立止ってしまった。そして、Ｄ寺の方へ行きかけたが、また立止って遂々悄々とまた宿へ帰って来た。