血の呻き 中篇(13)
二九
──薄暗い、落葉松林の端に、彼は立っていた。樹立の細い葉は、悩ましい女の抜毛のように、音もなく地に乱れ落ちた。秋の落日の、佗しい褪黄色の光線の流れが、そこにあたって、薄ら寒い溜息のような風が、忍足に地を流れていたように思う。
明三は、落ちて行く木の葉のような、力ない溜息をした。その時ふと、木の間の薄暗がりから、女が現れた。それは、病み衰えた雪子であった。彼女は、何故だか泣いたような顔をして、跣足でいた。そして、ちらと彼を見て立止ったが、愁わしげな眼をして歩み寄って来た。
雪子は、彼の前で立止った。
そして、物思わしげに彼を見て力ない声で言った。
「何故、此所にいるのあなたは……」
明三は、何も答えなかった。そして、悩ましげな眼で、彼女を見た。
「あの女を、待ってるんでしょう……」
雪子は、悲しげに彼を見て、弱々しい声で言った。
「私、皆知ってるのよ……」
彼女は、悲しげに顔を反けて、低い声で独言のように呟いた。
明三は、執拗に黙りこくって、彼女を見ていた。その唇は、何か言いたげに慄えたが、彼は眼に涙を溜めて、何も言わないのだ。
「これを、とって下さいな」
雪子は、手に持っていた、萎れかかった、白い何かの花をさし延べた。
明三は、自分の爪が掌に喰入る程も固く手を握りしめて、唇を嚙んで炎のような眼で彼女を見ていた。
「ね、とって下さいな……。いや……?」
彼女は、呼吸の触れる程も彼に近寄ってその顔を覗きながら、花をさし延べた。
彼は、自分の手を背後に隠して戦慄した。
「いやなの……何故?」
雪子は、泣くような顔をして、彼の胸の上に、その花を押つけた。そして、哀訴するように、じっと彼の眼に見入った。
明三は、嘆息して、俯れて、手を垂れた。女は、そこに跪いてその指の間に、そっとその花を挟ませた。そして、彼に背を向けて、彼の足下に跼まって両手で顔を掩うて、泣きはじめた。彼は、黙ってそこに立っていたが、軈てそっと跫音を忍ばせて、歩み去ろうとした。
すると、雪子は怯えたように立上った。彼は、木立のように、立疎んだ。
「貴方は、行くの……あの女の所へ……。もう、私には接吻もして下さらない……?」
彼女は然し、その答えを待っていなかった。彼の眼の中に総てを読んでしまって、彼を残したまま、黙って俯れて暗い森の中へ、歩み去った。
彼は、長い間黙然としてそこに立っていたが、そっとその花に唇を接けようとした。然し、まるで毒薬の匂いにでも接したように、それを唇から離してしまった。
そして迫しく息を喘ませながら、その花を吹きはじめた。その白い弱々しい花弁の一つ一つは、哀しげに慄えて、地に散り落ちた。──
彼は、眼を覚まして、暗い地面の寝床にいる自分を見出した。彼はそっと、周囲を見まわした。そこの暗い壁の下には、疲れた人々の頭が寝苦しげな呼吸をしながら、襤褸の中に眠っていた。
彼は、自分の空虚な手を見て、哀しげに嘆息しながら、自分に呟いた。
「何故、あの女の髪にでも接吻して、やらなかったろう」
彼は、また憂わしげに頭を垂れて眠入った。
然し、彼の上にはまた奇怪な、憂鬱が、襲って来た。そして、時々眼をさまして独言をしながら、深い物思いに耽っていた。