血の呻き 上篇(4)
四
明三は、渇いた者のように酒場に飛込んだ。彼は、誰かに言葉をかけ度いと思ったが、そこには五十位のひどく気難かしそうな男が黙りこくって酒を呑んでいる外、十三位のぼろぼろな青い服を着た少年が入口に立っているきりだった。
少年は、長い間彼を見ていたが笑いながら、明三の傍へ近よって来た。囊のような不格好な帽子を被って、踵のとれた、穴だらけのばかに大きい長靴を穿いていた。
「小父さん、今日は。お前は偉い人かい」
明三は、笑い出した。
「ふ、ふ、ちっとも偉くないよ。乞食坊主だよ」
「乞食かい。なあんだ。でも、洋服を着てるじゃないか」
明三は、愁わしげな顔をして、少年を見つめた。
「私は、道も知らない、哀れな人間だ」
「道、ふん、お前は知らないのか。俺だって知ってらあ、そんなもの。ばかだなあ……」
「白痴だよ」
少年は嘆息したが、急にしかつめらしい顔をして言い出した。
「俺に、二銭くれないか」
「二銭、何だい、二銭は」
「勲章を買うのよ」
「勲章を、……偉いね」
「そうよ」
明三は、羨ましげに彼を見た。
「じゃあ、五銭やろう」
「だめだ。剰銭を持ってないから」
「皆、やるよ」
「要らない。二銭でいいんだ」
明三は、ポケットから五六枚あった銅貨を摑み出してやった。
「それを、つけて置け。いい勲章だ」
今までずっと隅こに黙っていた男が、突然独言のように言った。
「ばかだなあ。人に笑われらあ。これは、銭だぜ……」
少年はその酒のみに叱言を言いながら、掌の上で三四度数えなおした。
「よし、三つ来るぞ! 三つ! お前にも一つ遣るからな」
そして、鴉のように何か叫びながら飛んで行った。
「あれは、何ですか。あの少年は……」
彼は、その男に話しかけた。
「白痴でさあ」
その男は、陰気な沈んだ声で答えた。
「茂という……」
そして、立って出て行ってしまった。彼は、食卓の上に置かれた黄色い酒の注がれた洋盃を茫然見ていたが、手を触れようともしないで顔をふせてしまった。
「やあい、やあい」
茂は、洋服の胸の所に二つの勲章を吊して、片方ずつの足で跳ねるようにしながら、走って来た。
「ほうら、これだ。お前にも一つやるぞ」
彼は、胸を抗げて見せびらかしながら、手に摑んでいた勲章を、明三の胸につけてくれた。
「は、は、は、……お前も小父さんも、白痴でないようになったぜ……」
二歩ばかり、離れて明三を見ながら笑った。
「俺が、道を教えてやらあ」
彼は明三の腕をつかんで戸外へ引ぱって行った。
「ほら、此所から、何所へでも行くがいい」
少年は、道路を指した。そして、自分はさっさと別な方角へ行ってしまった。
「は、は、……」
明三は空虚な声で笑った。然しその顔は咽び泣いているように、歪んでいた。彼は、俯れて勲章をさげたまま、のろのろと道路を歩きはじめた。
彼は、たまらなく懶く、今にも路の上に坐ってしまおうと、幾度も思った。そして、電柱に靠れかかった時、そこに青いペンキ塗の、壊れかかった古びた二階建が眼に入った。
「B新聞社……」
彼は、その扉の硝子に書かれた字を呟くように読んでいたが、溜息をついて、その家へは入って行った。錆びた呼鈴は、疲れ果てた呟きのような響を立てた。山口(※編輯長)は、疑いぶかい眼をして、階段の上から彼を覗いたが、急に気味悪いような薄笑いをした。そして、昇って行った彼の手を摑んで嗄れたひそひそ声で言った。
「ほう、貴方は、勲章をさげているんですね」
明三が薄笑いして何か言い出そうとすると、唇を指さして、咡いた。
「そっと、そっと……」
「一体、何事なんです」
明三は、自分の帽子を頭から挘り取りながら、低声で訊ねた。
山口は、彼の肘を摑んで編輯室へひっぱって行った。
暗い船艙のような陰気な編輯室の片隅には、汚ない床の上に直接に、汚れた襯衣一枚の男が、乱酔して寝ていた。山口は、彼を指さして咡いた。
「あれの死刑があるんです。ほら、あの脱獄囚の……」
「これが、それですか」
「いや。これは、その看守ですよ。……所で、貴方は……」
二人は、長い間恐ろしい陰謀でも企てているように、ひそひそと咡き合った。
「じゃあ、偽看守君の健康を祝して……」
骨ばった顔の山口が、薄笑いしながら咡いて、僅かばかり残ったウヰスキーの瓶を彼にさし延べた。彼は、沈黙ってその苦い滴を甜めるようにした。
「八時間後に、あの世に旅立つ死刑囚君の健康を祝して……」
山口は、恭々しく一つ頭をさげて、その残滓を飲みほしてしまった。
明三は、長く乱れた髪の上に監獄の看守の制帽を被った。それから、自分の脊広を脱ぎ捨ててそこに揉みくちゃにしてある、看守の古びた制服を着た。服は垢じんで重たく疲れた湿っぽい汗の臭いがした。彼は、外套を着て、その頭巾を頭からすっぽり被ってから、埃に汚れた窓硝子に顔をあてて戸外を覗いた。
日が落ちかかって、薄ら寒い風が遠い空を渡り、灰色な薄闇が、街の上に蹲まっていた。
明三は、重たい歩調でそこを出た。小さい坂をあがる時、白痴の茂に出会った。彼は、勇ましく紙を巻いたラッパを吹いて、勲章をつけた胸をつき出して歩いて来た。
「どこへ行んだ」
彼は、明三の外套に摑まって、不思議そうに見ながら訊ねた。
「監獄へさ」
「ふうむ。一人でか」
「そうさ」
「ふん……」
少年は、蔑むように鼻を鳴して、そっぽをむいた。茂は、しくしく泣いているのだった。明三が、歩み寄ると彼は、狂犬のように走ってどこかの小路へ隠れてしまった。