血の呻き 中篇(15)
三一
山崎は、すっかり、厭しい情慾の恣楽の爪にかき挘られて、その膚も何も、ぼろぼろになってしまった。彼の眼は、白痴の犬のように灰色に濁り、その頭は、胸の上に垂れ下って、体が屈まり込んでしまった。
若者は、その事に、耐えがたい快楽を貪ってでもいるように、仕事をしながらまで、ふと不可解な笑いに顔を歪めたりした。
「何だ、この馬鹿野郎!」
靴修繕師は、何時か人々の前でこの自分を連れて来た人間の顔に唾を吐きかけた。
然し、若者は、それを自分の手で拭って、薄気味悪くにやにや笑って、山崎の側へ自体をすりつけるようにして靠たれかかった。山崎は、その体を自分の腕で抱きしめて、彼の唇を甜めてだらしなく笑い出した。皆、彼等から顔を反けてしまったのだった。
山崎は、その事に就て、もうすっかり自分を制する力を失ってしまった。
その日の午後に彼は、跼まって鋤簾を使っている若者の背後から抱き着いた。若者は、その地面へ膝をついた。ヴルドッグは、歯を鳴しながら彼等に飛びかかった。
もう、ずっと前から気がついていた監視者等は、唯その自分の足で、この地獄へ帰って来た若者の為に、黙って顔を反けていたのだった。
それでも、山崎は、若者の躰から手を離さなかった。その眼は、発狂したようにつり上って、唇が醜く歪んでいた。ヴルドッグは、むやみにその頭を殴りながら、首を摑んで後へ引っぱった。
すると、山崎は、若者を地面へ押潰して、自分の全身で搦み着いて、果てはその後頭部の髪に嚙り着いた。若者は、さながら白痴の犬のように、自分の躰を跼めて、慄えながら黙っていた。
五六人の監視者等が、彼から山崎を引ずり降した。彼等は、この男の肉が、皮の中でぐたぐたになってしまう程も恐ろしく殴りつけた。
山崎は、口を開いて舌を長く垂れて、たらたらと唾液を垂しながら、重苦しい声を立てて、呻りながら踠いた。
「此奴を、あの穴へ投り込んでしまえ……」
悩ましげに、彼等の側に立っていて、時々自分の靴の踵で此男の頭を踏みつけていた蜘蛛は、頭をふりながら叫び出した。彼等は、そいつを暗い隧道の奥へ引ずって行った。そして、哀れな屍と二樽のセメントをすっかり呑んでしまった、恐ろしい穴へその男を押込んだ。
山崎は、そのひどく傷つき潰れた躰で、執拗に穴の縁に摑まった。彼等は、スコップでそこへ運んで来て置かれたバラス(※)をその頭へ投げかけた。彼は、歪み潰れた頭を振り動かして踠きながら、這い出そうとして蠢めいた。そして、頽れ落ちた土の縁に、歯を立てて噛み着いた。
蜘蛛は、そこに落ちていた石塊を持って行って、その頭の眼の所をめちゃめちゃに殴りつけた。
「こら、こら、こら、……」
然し、その叫声は、宛然泣いているようであった。死にかかった気味悪い生物の頭は、毒気のような息を吹いて、何度もその手に噛みつこうとでもするように歯を露出して、首をさし延べた。
その頭は、恐ろしく、まるで大きな何かの奇形な堕胎児かなぞのように奇怪に腫れ上って、血と土とに塗れていた。眼は、石でめちゃめちゃに叩き潰されて不気味にはみ出ていた。
その生物が、底も知れない穴の縁に摑まって、哀れっぽい苦悶そのもののような呻声を立てながら、のろのろと首をさし延べるのだ。
蜘蛛は、耐えがたいような惑乱した歪んだ顔をして、十秒ばかり茫然それを見つめたが、いきなりそこに転がっていた、大きな石塊を摑み上げて、頭の上へ投げ落した。
坑の縁に摑まった生物は恐ろしい叫声を挙げた。そして二度ばかり土から手を離して何かを摑もうとするように虚空に動かしたが、瞬間にずるずると暗い深みの知れない底へ辷り込んで行ってしまった。微かな、きれぎれな呻くような叫声が、もう冥府にも届くような遠い暗がりの底で聞えた。
蜘蛛は、坑の縁に膝をついて、見えない暗がりを覗きながら、ぶるぶると慄え出した。暗い坑はそこが奈落ででもあるように闃寂としてしまった。彼は、その闃寂の中に、あの気味悪い呻声が、何時までも続いて聞えるように、首をさし延べて聞き入って立ち上らなかった。
若者は、掘り頽した土の上に打俯して、声をあげて泣いていた。ヴルドッグは、その背中を一つ蹴上げた。
「こら! 犬奴、殴り殺すぞ……。何だって、動かねえんだ……」
若者は、素早く立ち上って、彼等を凝然とみつめて、鳴咽りながら鋤簾を動かした。監視者等は、忌わしげに此男を見ていたが、軈て自分等の場所へ歩み去った。彼等が、そこを離れると、彼はすぐ道具を投り出して、おいおい声を立てて泣きはじめた。そして、地面へ頽れ込んで、自分の頭をめちゃめちゃに搔き挘った。
蜘蛛は、慄えながら、ぶつぶつ言いながら出て来たが、彼を見ると、急に怯えたように立竦んだ。
「おい!」
そして、慄える声で、言葉をかけた。若者は、顔をあげて涙で泣き汚れた眼で彼を見た。蜘蛛は、じろじろと、気味悪くその顔に見入っていたが、急に両手で顔を掩うてそこを立ち去った。
若者は、また声をあげて泣き出した。誰も、彼を関わなかった。蜘蛛は、前よりも、もっとひどく黙り込んで、まるで何かに追いかけられてでもいるように、慴々しながら、せかせかと訳もなくそこらを歩きまわった。
その夜、人夫等は食事が終って、自分の寝床をかたづけていた時だった。あの、農夫の若者は、飯も食わないで自分の寝床のある壁の下の暗がりに向て踞まっていた。その時まで彼はそこに俯して啜り泣いていたのだ。
蜘蛛のような監視者は、怯々しながら、何か見えなくなったものでも探してるように、地面を見ながら、のろのろと扉口(※ドア)のところを歩いていた。
若者は、そっと忍び足に彼の背後に忍び寄った。誰もその事に気がつかなかった。
彼は、自分の手に、柄の折れた鎌をかくし持っていた。そして、息をひそめて、影のようにその監視者に寄りそった。後、二秒そのままでいたら、その柄のない鎌は、折目までも蜘蛛の軀へつき刺っていたに違いないのだ。
そこへ、突然ヴルドッグが戸外から這入って来て、彼の背後からその手を摑んで、喚き立てた。若者は、泣声を立てて叫びながら、ふり離そうとして踠いた。そして彼の手に、嚙みつこうとした。
「離してくれ、離して……」
「馬鹿野郎……」
ヴルドッグは、恐ろしい力でその腕が折曲ってしまう程も捩じ上げて叫んだ。
「何だ。どうしたんだ」
蜘蛛は、振り向いて憂わしげに彼等を見た。
「自分の胸へ、風穴をあけられかかって、他人に聞いてやがらあ……。早く、縄を……」
蜘蛛は、若者の顔を見ると、慄え出した。
「ま、俺、を……。俺を……」
「然うよ、縄を、縄を……」
併し、蜘蛛は、そこへ杭のように立竦んで、わなわな慄えながら、若者の顔に近く顔をよせて、その眼に見入った。若い農夫は、声を立てて泣き出した。
「お前……。何だってそんな可怪な行為をするんだ……。おい、誰か、縄を持って来てくれ……」
炊事番の親爺が、ロープを持って来た。ヴルドッグは、この若者の手を、彼自身の背中に脊負わせて、縛りつけた。蜘蛛は、それに手も借さないで、また、何か独言を言いながら、ふらふらと歩きはじめた。
「どうしたんだ、此奴は……変な行為をして……。気が狂ったのか」
ヴルドッグは、腹立しげに彼の手を摑んで言った。然し、蜘蛛が涙の溜った眼で、凝然と彼を見て黙って訴えるような様子をしたのを見ると、そのまま彼の手を離して、自分等の室へ去って行った。
間もなく年老った監視者と三人で、彼は出て来た。そして若者の背中に、工事用の石材を結り着けた。
「畜生! 動いてみろ! 夜があけたら料理してやる」
若者は、唯醜く顔を顰めて、声をあげて白痴の小児のように泣き叫んでいた。
「さあ、行こう」
灰色の口髭を蓄えた老監視者は、優しく蜘蛛の肩に手をかけて言った。
蜘蛛は、黙ってその手をおしのけた。
「何故だい……」
「…………。」
蜘蛛は、喰入るように彼の眼をじろじろと見た。
「行こう」
「離してくれ……」
彼は、唸るように言った。
「困った事だ」
老監視者は、呟くように言った。
「ああ、困った。ほんとうに……」
蜘蛛は、また自分の頭を摑んで何か自分の這い出る口をでも探しまわるように、そこらをぐるぐると歩きまわった。
眼も、鼻もない潰れ歪んだ頭が、うめきながら、爪の剝落ちた血みどろな指を立てて、暗い坑の底から、這い上って来る。そして、のろのろと背後から、自分に忍び寄って来る。彼には、総ての事が解っていながら、恐ろしさに振り向く事も出来ないのだ。そして、死んだ草の葉のように、真青になって慄えているのだ。
その奇怪な生物の吐く、声のない呻くような吐息が、明らかに聞える。
彼の頭の壁の中に、暗い穴があいた。その穴の底に、石でめちゃめちゃに潰されて押落された想念が、這い出そうとして醜く腫れ上った頭を擡げて、その傷ついた指でかき挘る。
「ああ、ああ……」
彼は、呻声を立てて逃れようとした。然し、暗い石の壁が、彼を遮って冷たくつき戻す。彼は、絶望の叫声をあげて、爪で壁をかき挘った。
彼を呪っている気味悪い手は、彼の踵に触れる。彼は足を振りまわした。然し、その手は恐ろしい力で、爪を立てて、ずるずると引戻す。そして、その底も知れない深い穴へ、曳ずり込もうとするのだ。彼は、罠にかかった獣のように跪いて、叫声をあげた。
「何だ! おい、おい……」
彼のすぐ側に寝ていた年老った監視者が、頭を擡げて言葉をかけた。
然し、蜘蛛は唯むやみに自分の軀に纏わりついている自分の夜具を掻き挘りながら、わなわなと慄えて物も言えないで呻いているのだ。その眼は、宛然瀕死人のような不気味な、光りのない色をもっていた。
「何だ! 汝どうしたんだ」
老監視者は、悩ましげに言って、この男の手を摑もうとした。蜘蛛は、のろのろと自分の手を差延べて泣くような嗄れ声を立ててその手を押しのけた。
「何だ!」
老監視者は、不機嫌らしく床の中から這い出して来た。然し彼は、蜘蛛がまるで何かに憑れでもしたように慄えながら、眼を光らしているのを見ると、彼には関わないで、そっと梟を揺り起した。
梟の嘴のような、妙な鼻をした監視者は、渋々起き上って口叱言を言いながら、がりがりと自分の髪を搔き挘っていたが、ぶつくさ言い出した。
「其奴に関うな。あれあな、また、気が狂ってるんだ。朝になったら、鴉へでもくれてやれ」
そして、すぐに自分の膝の上へ顔を伏せて、寝てしまった。
すると、彼の隣に寝ていた、全面恐ろしく焼け爛れた痕で、醜く蹙んだ顔をした若い監視者が起きて来た。
「これあ、いけない。病室へ入れよう。これが、斯うなる事を俺はちゃんと知っていた」
「だって、可哀想に……」
「蝎も、ほら、ああだったんだよ……」
老監視者は、黙り込んでしまった。焼痕面の男は、いきなり蜘蛛を捉まいて病室へ曳ずって行った。蜘蛛は、喉を鳴しながら跪いたが、まるで桔桎にでもかかったように、その手を動かす事さえ出来なかった。その監視者は、そんなにも恐ろしい力の所有者であったのだ。
恐ろしい、悚然とするような気味悪い叫声が、病室の扉を徹して聞えて来た。殆んど、総ての人が眼を覚してしまった、然し、誰も、暗い壁の下で、ひっそりと息づまるように黙り込んで、まるで、暗い坑の中へでも入れられているような気で、その呻き声を聞いていた。
それは、喉の中で何かの縄と縄との轢み合うような響を持った、重苦しい声であった。そして爪を立てて扉を搔き挘る音が、齷のように、その呻声に縺れ合って聞えた。
暫時すると、どたりと深い坑の底へ陥ち込んだ悩ましい音がして扉を掻く音は絶え、唯宛然瀬死の人の呻きのような叫声が、闇の底を汚れた果てしもない縄でも曳ずるように、長く続いた。
焼け爛れた顔をした監視者は、再び、死刑執行者のような、重々しい確然した歩調で、病室へ歩いて行った。老監視者は、弱々しい姿で腰を屈めてその背後からついた。
そして、気の狂った蜘蛛は、そこから出されて、どこかへ運んで行かれた。
「どうしたんだ。彼奴は……」
明三は、次の朝その焼痕のある恐ろしい顔の監視者に訊ねた。
「どうしたと……? 彼奴の首に石を結いつけて、川へ投り込んだのさ……」
その監視者は、沈んだ声で言ってから、急に痙攣たような笑い方をした。
殺されてしまうかと思われた若い農夫は、次の日縄を解かれて、仕事に連れて行かれた。彼は然し、頭の半分を喰いかがれでもしまったように、茫然していた。そして、時々何か独言を言っては、めそめそ泣き出したりした。
監視者等も、二三度叱言を言って、杖で脅したっきりで、執拗く関わなかった。
二日目の暮方になってから彼は、扉の所に立ってしくしくと泣いていた。
その夜、彼は屍になって靴修繕師の古手(※これは小林の間違い?古手は印判屋)に発見された。靴修繕師は、夜中に一人で便所へ行くと、そこの扉をあけた所に、襤褸かなぞのように縊れて、地に足のつく程垂れさがっている彼の屍に額をぶつけた。靴屋は、寝呆けていて茫然その吊されたものを見ていたが、やがて気がつくとべたりとそこへ潰れ込んで、むやみに両手を振りまわしながら、叫び立てた。
ヴルドッグと、梟とがやって来た。
「へえ。此奴は……。何と言う事を思い付いたもんだ。誰かに、うまく売り飛そうってのか……」
梟の嘴のような鼻をした監視者は、毒々しく言った。
「おい、汝、鉈をもって来てくれ……」
事実、若者は古着屋の店晒のようになってぶらさがっていた。その四肢は、宛然布片のように垂下り、恐ろしく長くなった首の上には、後に投げ返されたぶよぶよした頭に、唇からはみ出て瘤のように腫れ上った舌と、瞼から抜け出た、凝膠のように腫れた眼球とが粘着いていた。
「然し、何だって此奴は、自分の首へなぞ縄をつけたんだろう」
ヴルドッグは、沈んだ気むずかしい調子で言った。
「此奴にも、要らなくなったんだろう。此軀は……。ヘ、へ、……」
梟は、冷笑った。彼を吊していた縄は、鉈できり離され、屍は音を立てて落ちた。その腫れ上った、縄片のまきついた毛を挘られた鵞鳥の首のような首は地面へ折れ曲って頽れた。
屍は、その夜の中に自分の情人の埋っている底も知れない深い墓穴へ埋められた。