血の呻き 上篇(10)
一〇
彼は、W町の角で物思わしげな顔をして、向うから歩いて来るきく子を見つけた。
明三は、どこかの壁の間にでも隠れようとしたが、その時少女は顔をあげて彼を見た。彼は、針金でも刺されたように立竦んだ。彼は、自分が腹立しい程も、苦しかった。少女は彼の手を摑んで、その顔に見入りながら、沈んだ声で言った。
「どこにいたの。兄さんは」
「あのね。僕は、弱い意気地なしだから、……酔ってしまって、寝てたんだよ。雪さんは……」
「熱が、些し出たって。わたし今、林檎を買いに来たの」
明三は、ポケットの中をかい探って、一枚のもみくちゃな赤い小紙幣(※五十銭紙幣)を、彼女に渡した。
「これで買うの。わたしね、たった十銭よりなくて、困ってたの。じゃあ私、買ってくるわ」
彼女は歩き出した。
「だけど、兄さんは」
「私は、死ぬ程も頭が痛むの。それで……」
「いけない。行っちゃ駄目よ。じゃあ、ここにまっててね」
彼は、路傍の小さな杭に靠れて頭を垂れた。少女は、まもなく大きな籠を抱えて帰って来た。彼はその後についてあるきながら、眼に一杯涙をためて呟いた。
「僕あ、ほんとうに馬鹿だから」
そして、遂に啜り泣きし出した。
「あら、兄さんは……。そんなに頭が痛むの」
彼は、立止って激しくきく子の肩を抱きしめた。彼女は、黙ってじっと彼の顔を見ていたが、自分も、眼に涙を一杯ためながら、彼の涙を拭ってくれた。
医師は、気づかわしげに彼女の枕もとに坐っていた。雪子は、熱の為に異様に輝く眼で、彼を見た。そして、乾いたような唇を顫わした。彼は、怖えたように、隅の方の壁の所へ坐った。
「あら、兄さんは、どうして、そんな所へ坐ってるの。姉さん。これはほら、兄さんが買ってくれたのよ」
きく子は、医師と彼女との間へ林檎の籠を置いた。彼は、進み出て彼女の手を握った。
「何所へ、行ってたの」
「酒場へ、僕は弱虫だから、酒がなくちゃ生きていられないもの」
彼は、彼女の手の上へ涙を落した。
「私、寂しかったわ。熱が出るし。それに、それに……」
彼女は、訴えるように明三の眼に見入った。
「一寸、私を、起して……」
「いけない。体を動かさない方がいいです」
医師は、憂わしげに言った。
「いけないの、私、起きたいけど……」
医師は、暗い顔をして黙ってしまった。
「ね、一寸よ」
明三は、彼女の体に腕を捲いて自分の胸の中に扶け起した。
「ああ……」
雪子は、彼の胸の中に靠れながら深い息を吐いた。
「昨夜は、死ぬ事を、考えてみたの……」
「私、寂しいわ。死ねそうもない」
そして、苦しげな歪んだ微笑を泛べて彼を見た。明三は、痺れたような顔をして、彼女を見つめていた。
「昨夜ね。きくちゃんのお父さんね……。私の胸に接吻したのよ……」
雪子は、彼の耳に唇をあてて、咡いた。彼は、この老医師を、哀しげにみた。暗がりの中に、この青ざめた花の寝息を覗いている、黒い蜘蛛かなぞのような、生物が、その老医師でなく自分自身であるような気がされた。いやそれよりも、その蜘蛛の生命まで覘っている、醜い蝎かなぞのように自分を憎んだのだった。
そして、幾度も、自分の手を見つめて怖えたようにきょろきょろと、そこらを見たりした。
その時、飢えた狼のような狂暴な想念が、彼の心を搔乱した。それは、実に奇異に、暴風のように湧き上ったのだった。明三は、沈黙って肉を貪り食う惨虐な獣のように、ぎらぎらと輝く眼をして、痩せ衰ろえた彼女の体を胸の中に抱きしめながら、苦しげな喘ぐような息をついた。彼女は怖えたように彼の眼に見入ったが、軈て総てを委ねるように、彼の胸の中に顔を押あてて奇異に慄える手で、彼の腕にとり縋った。明三は、わなわなと慄えながら、歯を露出した醜い獣の嚙みつくように、彼女の上に体を屈めて、その首に熱い、接吻をした。
そして、彼等は、奇怪な想念に戦きながら、長い間抱擁していたのだった。
雪子は軈て彼の胸から顔を擡げて、悩ましげな熱い息をついて咡いた。
「あの人の顔を見るのが、私は、苦しいの……」
「僕は、……」
明三は、俯れてしまった。
「ね、私に話して下さいな」
雪子は、暫時黙っていてから寂しい声で言った。老医師は、咳をしながら跼まり込んで、両手で顔を掩うていた。
「何を……。私は、何も言わなくても、皆雪さんに解ってると思うの」
「だって、私には、何も解らないのよ」
「僕あね、花だと思う。……雪さんを」
「まあ、何の……」
「日もあたらない、暗い所に咲いている白粉草の……。いや、白い百合。暗い湖の辺りに俯れている白い百合だ……」
「だって、私は、花じゃないわ……」
「僕は、この事を今までに、何度雪さんに言い度いと思ったか、知れないんだよ」
「こんな、見すぼらしい……。何の花だろう。きっと、風に吹かれながら、路傍の埃にまみれて咲いている花よ。皆に、踏まれながら……」
「…………」
「キリストも、百合の花の事を言ってるわね。ソロモンの栄華の極みの時だにも、その装いこの花の一つに如かざりき。って……」
「雪さんは、バイブルを読んだの……」
「ええ。菊ちゃんが、拾ってきてくれたのよ。ほら」
彼女は、夜着の中からもうすりきれたぼろぼろな、小さい聖書を出して見せた。
「キリストも、好きだったんだろう」
彼は、何か他の事を考えているように言った。
「自分の恋人に白い百合の花であってくれと言った事もあった」
「これに、書いてあるの」
「いいえ。他の本に」
「で、あなたも、白い百合なら、好き?」
「ええ」
「じゃあ、わたしが、眠ってる間に接吻して、ね」
彼女は、彼の胸に顔をふせて消入るように咡いた。
「…………」
「ね、いいでしょう。まあ、でもあんまり可哀相な白百合だわ。こんなに瘠せ細って」
彼女は、自分の手を、彼の胸にあてて微笑みながら呟いた。
「キリストも、恋をしたの」
「ええ……」
「だって、これには書いてないのね」
「よく、解らないようにしてあるから」
「私、聞いちゃいけない? その話を……」
「……。あの人も、酒を飲んだ……ひどく酔ぱらって唄を歌っては、泣いたんだ……」
彼女の問には答えないで明三は、独言のように言った。
「私に、この続きを些し読んで下さいな。でも………貴方疲れてるの……」
娘は、首をかしげて彼の顔を覗き込んだ、明三は、彼女を自分の胸から離して、静かに寝床に横たえて、黙ってその聖書をとりあげた。
ルカ伝第七章第三十七節(※)の所に折目があった。
「あるパリサイの人、イエスを請きて共に食せん事を願いければ、イエス、パリサイの人の家に入りて食に就けり。邑の中に、悪行をなせる婦ありけるが、イエスがパリサイの人の家に坐せるを知りて、蠟石の盒に香膏(※香油)を携ち来り、イエスの後にたち足下に哭き、涙にてその足を濡し首の髪もてこれを拭い、かつその足に口を接けまた香膏を之に抹り。イエスを請きたるパリサイの人これを見て……」
明三は、沈んだ慄えるような声で、読みつづけた。
「この故に、我汝に言わん、この婦の多くの罪は赦されたり。これに因てその愛も亦多きなり。赦さるる事些きものは、その愛もまた少し」
きく子は、彼の肩に摑まって彼の髪を指で梳きながら、聞き入っていた。そこで明三が些と黙った時雪子は、素早く、彼の指に接吻した。そして、彼の膝の所に顔を埋めて訊ねた。
「その罪は、誰がきめたの」
「解らない……私には」
彼は、慄えながら髪を乱して俯している娘を見て硬ばったような声で言った。
「女よ、爾の罪赦さる。……爾の徳、なんじを救えり。安然にして行け」
明三は、きれぎれにその後を読みつづけた。
医師は、ますます、低く跼まり込んで苦しげに息をしながら、ぶつぶつと言い出した。
「貴方は、どう思いますか。その……。若し負いきれない程の罪を脊負って、耐えきれなくて潰れ込んだ人は、誰が赦してくれるんです。そんな人には、誰も、手を延べてはくれないのですか」
彼は、痛みに耐えられないような顔をして、老医師を見つめた。然し軈て何か怒に慄えるような声で早口に言った。
「罪。罪とは何です。そんな下らない……」
そして、激しい声で、何か言いつづけようとしたが、急に、何かに脅かされたように黙りこんでしまった。そして、沈んだ暗い顔をして頭を垂れた。
その話の後に、彼等はすっかり重苦しい沈黙に陥ちた。雪子は、俯して欷歔いてでもいるらしかったが、間もなく微かな寝息を立てはじめた。
医師は、明三の顔を見ながら、何か言いたそうにしていたが、遂々黙り込んでしまった。きく子は明三の側に坐って、彼の顔に見入って笑った。
「兄さんは、何故何も解らないというの」
「だって、解らないんだもの。
「然うじゃないわ。皆知ってる偉い人だわ。ね、お父さん」
「ああ」
老医師は、懶げに答えた。
「私を、虐めないでおくれ。私は真実にどんな人のどんな苦しみでも、解るように思われる。だから、何も彼も解らなくなるんだよ……」
「だから、偉いんだわ。それで、いいのよ」
「いいや。きくちゃん、それじゃいけないんだ。生きてるには。こんな、頭を引挘られた蛙よりも惨めな態では……」
少女は、彼の肩に摑まって、沈んだ哀しげな顔をして、彼に見入った。
「きくちゃんこそ、何も彼も知ってるんだね」
「私、何も知らないわ」
彼女は、頭を俯れてしまった。
遂に夕が来て日は、音もなく沈んだ。
薄暗い室の、微かな光りは、闇の唇に吸い尽された。
「ああ、日が暮れた……」
老医師は、耐えがたいような、苦しげな声で呟いた。
「私、行かなきゃならない」
「どこへ、きくちゃん」
「姉さんのお父さんの所……へ」
「ああ、また行くの」
「兄さんは、どこへも、行かないでいてね」
「ええ」
「夜があければ、すぐ来るわ。お父さん」
彼女は、跪いてそっと雪子の顔にふれる程にして覗き込んでいたが、黙って行ってしまった。雪子は、何かに魅入られでもしたように、眠り疲れていた。
残された彼等は、長い果てしもない沈黙の中に坐っていた。そして、その暗がりの闃寂に疲れてそうして踞まったまま、睡に陥ちてしまったのだった。
──深い峡谷の底の、死の沼の縁に、明三は瘦せ衰えた素裸の体で、踞まっている。水際には、乱れた抜毛のような気味悪い草が這い纏って、没薬(※)の淀みのような、汚れた水を、死の毒を盛ったように湛えた沼は音もなく沈んでいる。
疲れた、灰黄色い嘆息のような日の光りが、遠い暗い空に漂っている。女は、人を死に導く、気味悪い向日葵の花の屍のように、汚れた歓楽に酔い疲れて、素裸のまま眠っているのだ。
彼は、ふらふらと奇怪な姿の彼女の周辺をさまよい始めた。
急に、爛れた血のような、地の奈落に陥ちて行く夕陽の、毒々しい嘲笑いのような光りが、空にぬられる。
明三は、死霊に憑れたもののように、嗚咽しながら、その暗い水の上に跼まり込んで、頭を垂れた。今、死の水は、彼の裸にその気味悪い腕を捲きつけ、彼はその痺れた頭をそのものの胸にあてようとする。
女は、叫び声をあげて、気味悪く笑い出した。彼女は、蛇のような腕を、この死に魅せられた男の軀に捲く。そして、烈しい呻くような声で、笑うのだ。その笑声が蛇のように恐ろしい鎌首を立てて彼の頭の中を這いまわった。──明三は、奇怪な夢の底から、重い頭を擡げた。
彼は呆然暗い室の中に坐っていたが、遂に泥沼の底のような暗い重々しい闃寂の中にいる事が、耐えがたく寂しくなった。で、暫時雪子の暑苦しいとぎれとぎれな寝息に耳を澄していたが、そっと起き上って蠟燭を点灯した。娘は、青ざめた花のような顔を仰けて眠っていた。明三は、そっと、顔をすりよせて彼女の額に吻を接けた。
その時雪子は、白い花の蕾の開いたように眼を覚した。そして、蠟燭のほの白い灯影に、不思議そうに彼を見て微笑した。
「あなた、ずっとそうして起きてらして……」
「いいえ。何故」
彼女は、しげしげと彼の顔を見ながら、物思わしげに言った。
「私、夢を見たの」
「どんな夢を……」
「夜の海の中よ。恐ろしい暴風雨が荒れてるの。そこに坐礁した難破船の中に私たちが二人……」
「誰と……」
「あなたと、私と……。何故…。貴方じゃ、いけなくて……?」
「それから」
彼は、沈んだ声で言った。
「唯二人で坐ってるの。果てもない暗い海で、濤は何か怒ってでもいるように、襲いかかって来るの。二人は抱き合って、何か咡いてるの」
「何を」
「私、解らないわ。何故そんなに恐い顔をするの。あなたは」
「いいや。まあ話しなさい」
「二人は、然うしたまま死のうと言うのよ。私は、泣いてるの。悲しくてじゃないのよ。解って……」
「解ってます」
「あなたは、然うして死ぬ事は、……?」
彼女は、彼を問い糺すように言った。
「然う。そうして死ねれば美しい。私も、そう思う、ね。で、死んだの……」
彼は、きれぎれに、悩ましげに言った。
「ああ、私、どうしよう。……」
彼女は、長い間呻くようにしていてから、怖々と言い出した。
「死なないのよ」
「どうして」
「そこへ、恐ろしい力をもった、美しい妖魔が、浪の中から出て来て、あなたの首に手を捲いたの、そ、そして……」
「そして……」
「私、泣き叫ぶ所で眼がさめたの……。でも、あなたは、行かないわね」
彼女は、眼を輝して彼を見つめた。
「行かない。そんな女は、どこにもありやしないよ」
彼は、慄える声で、彼女から顔を反けて言った。
「ね、私の所に、寂しい海の難破船に、残って、ね」
「ええ」
「じゃあ、私を抱いて下さいな」
彼は、彼女を抱き起して、自分の胸に靠れさせて、その手を握りしめた。彼女は、彼の額の中に頭を垂れた。
「あれは、あれ……あの歌を、ジョスランのヘルウズ(※)……。そうだったわね。あの中の小唄を、あれを歌って下さいな」
彼は、困惑した顔をして黙っていた。
「あら。いやなの。歌って下さいな。私、仔馬を寝せる時、よく唱ったのよ」
彼女は、懐かしい昔を偲ぶように嗄れた乾いたような声で言った。
彼は、深く物思に沈みながら、きれぎれな低い、慄える声でそのルフランを歌い出した。
「な、いまだ、醒めそ、……
汝が夢の、くしき天使
黄金の糸を、繰り
終らん時まで……
いねよ、
短き日を……
聖母よ、まもりてよ……」
彼女は、嬰児のように、彼の胸の中に頭をつけながら、希った。
「もう、一度」
「な、いまだ、醒めそ……」
彼女は、その三度目の歌の終らないうちに、両手を彼の胸にあてて、その膝に額を押あてて、嬰児のような穏かな寝息を立てて、寝入ってしまった。彼もその唄をうたいつづけながら彼女の背に顔をあてたまま睡ってしまったのだった。寂しい一本の蠟燭の灯が、彼等を見守っていた。
次の日の朝、彼が眼を覚したばかりの所へ、あの白痴の少年がやって来た。彼は、不快げな顔をして、物も言わないで這入って来た。
「何だよ……」
「あのね、寺の女が……」
「何を、言った」
明三は、手を振ってそっと言えと眼で知らせた。
「来てくれって」
「よし。何時……」
「今、直ぐ」
少年は、言捨てて哀しげな眼つきをして出て行った。
彼は、そっと室の中を見まわして、起上った。老医師は、壁に額をあてて、低い嗄れた鼾を立てて眠っていた。雪子は、あの時のままの姿で、夜具の中に折俯していた。
そこへ、突然疲れきった哀しげな顔をして、きく子が帰って来た。
「あら、どこかへ行くの。兄さん」
「きくちゃんかい。お寝み」
彼は、彼女の肩を抱いて、その顔に接吻してやった。
「どこへ……」
「どこへも……」
「でも、兄さんは立ってるの、ね」
彼女は、訴えるように彼を見た。
「…………」
彼は、頭を垂れて黙り込んでしまった。
「茂が、来てったのね」
「ええ」
少女は、溜息をついて、彼に顔を反けた。明三は、彼女の手を握ろうとした。そして、口ごもりながら呟いた。
「私は……」
然し、その時雪子が眼を覚して、じっと彼を見た。彼は口を噤んで彼女の指に唇をつけて、黙ってそこに踞まった。きく子は、何か哀訴するように彼を見ていたが、黙って雪子の側へ横になって、眼をつむった。
「姉さん、私を些し寝せて頂戴な」
雪子は、彼の顔を見て、微笑しながら、そっと言った。
「歌を唱わなくっても、黙って寝んねするのよ」
二人の娘は顔を見合せて、微笑った。雪子は、少女の肩を抱いて、その頰に接吻して髪を撫でてやった。
きく子は、眼をつむってうとうとしていたが、すぐ、疲れきった人のような、痛々しい寝息を立てて寝入ってしまった。
雪子は、少女の頭に顔をすりよせて、何時までも顔をあげなかった。
明三は、そっと忍び足にそこを辷り出た。