血の呻き 中篇(14)
三〇
その次の日の夕方、あの魯鈍な百姓上りの若者が、一人の男を連れて帰って来た。
「大将、帰って来ましたよ」
彼は、年老った監視者に言った。
「ほう、汝か……帰って来たのかい……」
その監視者は、物思わしげにこの男を見て言った。そんな事は、遂ぞないことだった。無論どんな人間が、自分の一度はい出て来た地獄へ、自分の足で戻って来るものだろう。
彼は、全然眼が癒ったのではなかったが、街の暮しには、たまらなくなったし、それに……。無論、あの一圓(※旧圓紙幣)の金で、どんな暮しがされたものだろう。彼は、ともかく、自分の手が、何をやってるんだかは、見える位いになったので、も一度働く為に帰って来たのだと言った。
「で、そこに立ってる男は、それは……」
「この人も、その、行って、稼いでみたいと言うので……」
「ふうむ。お前さんが、此所で、稼ぎたいって……。どうしてだね……」
「俺は、街の暮しが、厭になったんだ。彼所にあきてしまった……。ひょっとしたら、此所は、地獄だと……」
「地獄……? どんな地獄だ」
「俺は、知らないよ。ともかく面白い事もあるかと思って来たんだが……お前等が、俺を嫌いなら帰るよ」
その男は、ぶっきらぼうに言って、顰め面をした。
「まあ、面白い事は毎日だ……。今日も、一人底のない墓坑へ送り込んだ」
ヴルドッグが、その男の前に出て来て言った。
「ふうむ。それは、それは……。じゃあ、置いてくれ」
「所で、お前は、何がいるんだ」
「食う物は……」
「米だ」
「酒は……」
「ない」
「それを、一寸ずつくれないか」
「いけない。此所では、時があるんだ。その時に、やる」
「その時は、すぐ、来るかなあ」
「なかなか来ないよ」
その男は、困った顔をした。
「何とかして、なるだけ、早くよこしてくれ。それで、いい」
「金は……」
「いくらでも……、くれ……。くれなければ、いらないよ」
「汝は、何てえ変な奴だ。お前にそっくりな奴が、一人いる」
「どこにだ……」
「此所に……。ほら……」
ヴルドッグは、彼等から七歩ばかり離れていた明三を指した。
「ふうむ」
その男は、彼の方へ近づいたが、二歩ばかりの所へ来ると、怯えたように立止った。
「ああ……お前は……」
「来たのかい……」
明三は、此男を、見ながら愁わしげに言った。
「お前は、ずっと……、此所にいたのか……」
その男は、急に悄れたような力ない沈んだ声で言った。それは、あの裸で踊っていて警察へ曳っぱって行かれた靴修繕師だった。
「何だって、こんな所へ……」
明三は、独言のように言った。
「いや、お前こそ……」
靴屋は、不機嫌らしく呟いた。そして、二人は黙り込んだまま、長い間お互の眼に見入っていた。
「何だ、此奴等は、……。馬鹿の知友か……」
ヴルドッグは、笑いながら、彼等の側へよって来た。
「彼女は……何所にいるんだ」
暫時してから、靴修繕師はそっと彼に咡いた。
「彼所に……」
明三は、監視者等のいる、扉のしまった室を指した。
「然うかい。……お前は……その……」
然し急に靴修繕師は、口を噤んで、ひたと彼の眼に見入っていたが、黙ったまま向うへ行ってしまった。
「女は、いるのかい」
靴修繕飾は、木の瘤のような面相の監視者に言った。
「いるよ。だが、それが、お前に何か用事があるのか……」
「一寸、話しをしたい」
「ふん。お前の親類だとでも言うのか」
「兄弟だ……」
「彼女は、だって、お母もなくて娑婆へ唯一人でやって来たんだって、言ってたぜ」
「そうさ。だから、兄弟さ……。所で、そいつは、無代かい」
靴修繕師は、気味悪い眼をして訊ねた。
「ばか奴! そいつへ小指一本でも触ったら、汝の首が、無料で胴とお別れだ……」
「ふうむ。じゃあ、お前等が飼っているのか」
靴修繕師は、溜息を吐いて、食卓の端の方へ立った。
女は、長い間、遂ぞ一度も彼等の前へ出て来なかった。
靴修繕師は、何か自分一人の想念の中で焦慮しながら、日を過した。そのうちに、彼は、うまく炊事番の親爺を擒にした。然し、彼には、うまい機会が、ついぞ与えられなかった。彼は、警察から放還されると、あの街中を気狂いのようになって探しまわったが、どこにも時子はいなかった。その結果、やっと女がNの新線工事の土工部屋へ行ってる事をつきとめて、町へ流れて来て、時をまっていたのだ。そのうちに、あの魯鈍な若者を、うまく手に入れて、ここへやって来たのだった。
魯鈍な若者が、この部屋へ帰って来て、まだ四日位いのうちに、奇妙な男が彼の体を罠にかけたように、囚えてしまった。
之れは、四十位いの、山崎という、体のひょろ高い、小さな赤い腫れた眼をした腰の屈まった男であった。彼は、ずっと前から、此若者がまだ街へ出ないうちから、彼を覘っていたらしかった。若者が、街へ出ている間彼は、ひどく鬱ぎ込んで誰とも口をきかなかった。それが、今度帰って来ると、彼は、自分の寝床の側へ若者の寝床を造ってやったり、その眼を水で冷したりして、犬の雄が雌につきまとふようにして執拗くつきまとった。彼等が、どんな機会から結びついたのか、それは彼等の他に誰も知らなかった。
山崎は、その事に就て、まるで狂人であった。魯鈍な若者は、彼にその軀を売りつけてでもしまったように、総てを彼に委ねていた。
皆その事を知っていて悩ましげに彼等を見ていたが、何も言わなかった。
「何だ! あの畜生等は……胸が悪くなる……」
靴修繕師は、一度大きな声で、人々の中で呶鳴ったが、誰も何も言わなかった。