平成最後の徹夜を終えて
ただの雑談です。
昨日から徹夜で、やや大きいお金の動く、とある企画書を書き上げていた。さきほど先方にメールし、一段落。
徹夜なんて非効率で、絶対しない方が良いに決まってるし、「徹夜しちゃって〜」みたいな言動が「痛い」ことだって、10年以上前にわかってる。あと太るし。
ただ、もしかしたら今回の「徹夜」は、やや平成の惜別のような気持ちにもさせてくれるものだった、と言えるのかもしれない。
ぼくは昨日、MMMのミーティングで慶應義塾大学のSFC(湘南藤沢キャンパス)に2時間ほど滞在した。ぼくの長い長い大学時代を過ごした場所だ。
2003年に入学して、一度東京芸大の大学院に出たり、学生辞めて研究員になったり、いろいろあったけど、昨日行ったことによって、SFC17回目の春を迎えてしまった。
今でこそ違うが、インターネット環境やクリエイティブ環境が普及してなかった頃は「24時間キャンパス」というのがSFCのウリの一つだったように思う。ぼくも例に漏れず、よく残留をした。学部生時代の大学予備校ベンチャーサークルのプレゼン資料を後輩と朝まで作ったことも、MMM思いついて朝まで緒方君と議論したことも、メディアアート作品の、数回に一回起きてしまう致命的なエラーを解消するために一夜を使ったことも、難関だった博士論文の公聴会前夜に、誰もいないドコモハウスで練習をして暗唱できるまでに仕上げたことも、全部徹夜を通してやったことだ。もしSFCが普通の大学のように徹夜ができない環境であれば、これらは全てできなかったことになる。そうしたら今のようにやりたいことをやれる人生は得られなかった可能性が高い。もちろん徹夜の非効率さを学ぶのも残留を通してなのだけれども笑、スキルも才能も人脈もなく、体力だけが取り柄だったぼくにとって徹夜で何かを終わらす、心も体もあるタスクに漬け込ませる、という体験はある意味この業界で生き残るための取らざるを得ない手段だったのだ、と今になっては思う。もしかしたら、ぼくにとっての平成=徹夜、というまとめ方すらできるかもしれない(昭和と平成が切り替わった1989年は10時前に寝ちゃう小学生ですから)。
そうそう、そういえばMIT博士課程の中垣(拳)君がA&Tの一番最初のメール、つまりぼくがSFCの大学一年生に送信したメールをTwitterに晒していたけど、送信時間が4:55AMだった(A&Tのスタートについてはこちら)。
おそらく研究計画書を書いてて、飽きて一年生に絡んだのだろう(もちろん、悪ノリではなくて、あああれ今やっとくか、的な感じ)。送った瞬間の記憶は割と覚えていて、あの頃って徹夜してもあんまり疲れてなかったな、おおもう朝か、飯食いに行くか、ぐらいの感覚だったように思う。
今朝も仕事に関する計画書を書いていた。書いていた内容は、研究性が伴うもの。なので、ほんとうに10年前と同じことをやっている。進化がないな、とも思うし、楽しいことを10年間やれ続けたことに、ちょっと嬉しくも思う。
今日から月末までは割としっかりとスケジュールが決まっている。今回は、東京と、千葉と、伊東と、ちょっと長めに那珂湊。戻ってきたら、自由が丘の最高にうまい鴨そばが待っている。おそらく、平成の世のうちに徹夜をすることはないだろう。
では令和になったらまた徹夜するの?というと、まあやっぱり徹夜は非効率なものだから、したくないよね…とは思う。だけど、「せざるを得ない」状況だからこそ得ることがたものもあるんだろうな。そのためにまだ「徹夜」する覚悟は必要なのかな、とも思う。一方で、もうそれを得る世代じゃないのかもしれない、とも思う。令和の世はどっちかな…なんて、答えを決めるほどのことでもないけど、ね。
ただ、当時の熱は忘れずにいたいし、とりあえず現時点では、当時と変わらないぐらい熱い場所に(しかも複数箇所!)いれていることに、感謝しているし、誇りを感じているし、まあ普通に楽しい。
さて仕事に戻ります。