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靴紐が乾く頃に

19にもなって、靴紐がうまく結べなかった。

10月。雨が降っていた。
彼女と出会う以前に見た夢は
全て忘れてしまった。
玄関とも言えないくらい狭い玄関で
彼女は僕にいつもの別れの挨拶をすると
僕の首に回していた細い腕を解いて
しゃがみこんだ。
彼女の髪がすこし揺れて
淡いシャンプーの匂いがした。
別れの挨拶のときに感じた
唇と鼻の間の匂いのほうが好きだった。
彼女は僕の薄汚れたスニーカーの靴紐を
手際よく結びなおす。
彼女が力を入れて輪っかを引っ張って締めると
縦になっていた蝶々が横になって
ふわりと羽を広げて僕にすましてみせた。
綺麗だった。
靴紐を結んでもらったときだけ
彼女が歳上だということを感じられた。

21になった。
彼女が僕の彼女だったときの歳になった。
蝶々は僕の手の中でも正しく羽を広げられるようになっていた。

就職を機に、地元を離れる。
必要最低限のものを段ボールに詰めていく。
5つもあれば事足りた。
僕の後ろで
段ボールをガムテープで閉じようとした母が

「これ、持ってくの?」

と青い大学ノートを僕にみせた。
雨で濡れて端の方は波打ち
色もその部分だけ薄くなっている。

「持って行くよ」

迷いなく答えると、
母は眉を少し上げながら
ノートを段ボールに戻した。


ノートには僕の名前が書いてある。
最後のページの下の方に、小さく、小さく、
小難しい木の名前が、細い線で書いてある。





彼女は僕よりも僕の名前を書くのが上手かった。靴紐はきっと今の僕の方が結ぶのが上手いけれど、字の美しさは敵わない。たまに見返して指でなぞれば、僕はまた、夢を見られる。

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