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教団の正体

はじめに

多くのクリスチャンが、何らかの教団教派に所属しています。

ところで、教団教派とは何でしょう。

一般には、同じ聖書理解をする人同士の宗教グループ、そんなふうに認識されています。

しかし、聖書はどう教えているでしょうか。
神様は、教団教派をどのように見ておられるのでしょうか。

とても大切なことですので、ご一緒に確認してみましょう。

聖書の教える教団

聖書に登場する教団で最も有名なのが、パリサイ派です。

文字によって律法に仕えるパリサイ派は、
霊によって律法に仕えるイエス・キリストと、
真っ向から対立することになりました。

ヨハネの福音書
7:19 モーセはあなたがたに律法を与えたではないか。それだのに、あなたがたのうちには、その律法を行う者がひとりもない。あなたがたは、なぜわたしを殺そうと思っているのか」。

表面上の律法遵守にこだわるこの教団は、圧倒的な主流派でした。
そこから破門されることは、社会からの追放を意味していました。

そのせいで、ニコデモは昼間にイエスを訪ねることができず、夜中にこっそりやってきました(ヨハネ3:2)。

そのせいで、ある両親は、息子の目を見えるようにしてくれた方を、キリストと告白することができませんでした(ヨハネ9:22)。

そのせいで、役人たちはイエスを信じながらも、それを告白することができませんでした(ヨハネ12:42)。

これらの記事が意味することは、当時、教団にいては、決してイエス・キリストに従うことはできなかったということです。

現代ではどうでしょうか。
教団にいても、イエス・キリストに従うことは可能なのでしょうか。

教団の正体

教団、教派を構成することは、確かに良い面もあるでしょう。対立する人同士が交わることが減り、安心して教会に通うことができるかもしれません。

しかし、そこにはもはや「真理の回復がない」ことを覚えてください。

というのも、教団、教派の正体とは、「私たちはこう考えることに決めた」という人間の意志にほかならないからです。
その裏には、「もう考えを変える気はありません」「もう聖書研究は終わりました」という、闇の決意が潜んでいるのです。

もちろん、口ではそう言わないでしょう。
しかし、現実がそうであることは、誰の目にも明らかです。
彼らは聖書研究をしているといいながら、じつは教団の教えをなぞっているに過ぎないのです。

そしてご存じのとおり、各教団の教えは、てんでばらばらです。
すなわち、教団に所属することは、当たり確率の低いくじを引くようなものだということです。

にもかかわらず、多くの教団が、自分たちこそ正しいのだと主張します。
それでいいのでしょうか。

コリント人への手紙 第一
8:2 もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。

人間は、何かを知ったと思っても、じつは間違いだらけの存在です。
それを正していくからこそ、真理へ近づくことができるのです。

今、教団、教派を立ち上げることがどういうことなのか、気づいてください。
それは、真理に近づくことをやめてしまった人の姿です。

どの教団、教派に所属すれば良いか、ではないのです。
教団、教派に属して良いのか、そこから考え直す必要があります。

党派心に対する警告

聖書によれば、党派心永遠の命は、決して両立しません

ローマ人への手紙
2:7 すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、
2:8 他方では、党派心(利己的な思い)をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。

党派心とは何でしょうか。
それは、「私たちはこう考えることに決めた」という態度にほかなりません。

これについては、聖書に厳しい警告が書かれています。

ガラテヤ人への手紙
5:19 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心(利己心)分裂分派
5:21 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない

この言葉を信じますか。
信じようと信じまいと、党派心を持つ人が神の国を継ぐことはありません
その理由はただ一つ。聖書にそう書いてあるからです。

教団を出ようとする人への攻撃

キリストに従いたい人は誰でも、教団、教派に縛られることなく、自由に考えを変えられるようにしておくべきです。

そう言うと、必ず次の聖句を持ち出して攻撃してくる人が現れます。

ヘブル人への手紙
10:25 ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。

はい、そのとおりです。
しかし、教団がなくても、砕かれた心で、私たちは集まることができます
むしろそうして集まるなら、互いに学び合い、聖書の真理で自分の間違いを修正することができるでしょう。

また、「分裂をもたらす者だ」と言って、罵る人たちがいます。

しかしどうでしょう。
分派を作る人と、そんなものを作るなと言う人と、どちらが分裂をもたらす者でしょうか。うわべで人を裁かないで、正しい判断をしなければなりません。

「自分で聖書を学ぶな!」
「教団を出るな!」
「教団の解釈だけが正しい!」

そんなことを言い出すなら、それはもう「カルト」です。この発言が出たら、一発でアウトです。すぐにそこから逃げ出す必要があります。

また、誰かが教団の教えに疑問を投げかけたとき、彼らが怒り出すなら、間違いなくその教団から出る必要があります。
なぜなら、その教団にいても御霊みたまの実が結ばれないことを、彼ら自身が証明しているからです。

ガラテヤ人への手紙
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、
5:23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。

マタイの福音書
7:20 このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。

しゅによって教団に置かれた人

しかし中には、様々な事情によって、教団に所属し続ける人もいるでしょう。
もしかしたら、しゅの命令によって、とどまることを示された方もいるかもしれません。

それなら、心だけでも教団から抜け出してはどうでしょうか。
そして機会があれば、本物の信仰者の姿について、兄弟姉妹に知らせてあげてはどうでしょうか。

使徒の働き
17:11 ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた
17:12 そういうわけで、彼らのうちの多くの者が信者になった──

おわりに

教団の正体。それは「自分たちこそ正しい」と確信した人々が作った宗教団体、それに尽きるのです。

間違いに気づいたとき、彼らはどうするつもりでしょう。
きっと意固地になって、それが間違いではない理由をこじつけることになるでしょう。
それが教団に所属するということです。

間違いを修正することは、教団、教派にいては、決してできません

幸いなことです、教団、教派に属さず、自分はまだ何も知らないのだと考える人は。
そのような人は、いつでも素直に聖書の御言葉みことばによって自分の考えを変えることができるからです。

これこそが、天国へ行く人の姿です。

マタイの福音書
18:3 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。
18:4 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。

あなたはどうでしょうか。
自分こそ正しい。間違いのない教団に属している。そう思ってはいないでしょうか。

そうであってはいけないと聖書は教えているはずです。
どんな教理にも固執せず、いつでも考えを変えられる姿勢を持つことは、本当に大切なことです。

これがどんなにすばらしいことか、想像してみてください。
聖書の中に真理を見つけるたびに、考えを変えていいのです。

この体験をしていない人は、ぜひ知ってください。
私たちの教師は、本当にキリストだけで十分なのです。

まずは、あなたの心から党派心をすっかり取り除くことから始めてみませんか?

最初に聞いた教えにこだわる必要なんて、どこにもないのです。
私たちはキリストだけを教師として、一から学び直すことができます。
このことに、わくわくしませんか?

幼子のようになって、聖書を学び直しましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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