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十戒を守って救われようとする?
はじめに
次のような言葉を聞いたことはありませんか。
十戒を守って救われようとするなら、その人は恵みから落ちている。その行き着く先は呪いであり、死である。
そのとおりです。
ガラテヤ人への手紙
3:10 いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。
3:11 そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。
ところで、なぜこの言葉が現代の教会で連呼されるのでしょうか。
もしかして、十戒を嫌いにさせるサタンの罠にはまってはいませんか。
聖書の教え
大事なのは、ただ神の戒め(十戒)を守ることである、そう聖書は教えます。
コリント人への手紙 第一
7:19 割礼があってもなくても、それは問題ではない。大事なのは、ただ神の戒めを守ることである。
この聖書の言葉は、間違っていたのでしょうか。
絶対にそんなことはありません。
すべての人が間違っていても、神の言葉は真実とすべきです。
では、どのように考えたらよいのでしょう。
「律法の行いによる者は、皆呪いの下にある」とはどういう意味なのでしょうか。
結論から言いましょう。
「自分は十戒を守れている」という自負によって義を主張するなら、その人は必ず失敗すると聖書は教えているのです。
なぜなら、神の目から見て、十戒の基準を守れている人などいないからです。
ローマ人への手紙
3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
だからこそ、新しい方法によって義を獲得しなさいというのが聖書の教えです。
新しい方法
ヘブル人への手紙
8:10 わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。
これが新しい方法、すなわち新約です。
幕屋や神殿が教えていたのは、このことです。
私たちの中に十戒が納められ、神の宮となることで、神の民になれるのです。
反対に、十戒を拒絶する人は、新約を拒絶しており、救われたと思い込んでいるに過ぎません。
幕屋や神殿を思い出してください。
十戒のある所に、神の霊が宿るのです。
そうして霊の力により、十戒の要求を満たす生き方ができるようになる、それが聖書の救いなのです。
ローマ人への手紙
8:4 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。
繰り返しますが、十戒を守らない人は、救われていません。
なぜなら、聖書の教える救いとは、「罪からの救い」だからです。
マタイの福音書
1:21 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。
新しい方法を知らないクリスチャン
この新しい方法を、多くのクリスチャンは知りません。「信じるだけ」という教えが蔓延し、「神の戒めなど守る必要はない」と教えられているからです。
はっきり言いましょう。そのような人は、永遠の命に入ってはいません。
マタイの福音書
19:17 イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
19:18 彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。
19:19 父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。
これが主の教えです。
すると現代の牧師は言うでしょう。「主はこの青年が律法を守れていないことを示すために、嘘を言われたのだ」と。
とんでもないことです。
主はけっして嘘を言われません。
命に入りたいなら十戒を守りなさい、これは真実です。
ヨハネの手紙 第一
3:23 神の御子イエス・キリストの名を信じ、この方が私たちに命じられたように、互いに愛し合うこと、これが神の戒め(十戒)です。
3:24 神の戒めを守る人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神が私たちの内にとどまってくださることは、神が私たちに与えてくださった霊によって分かります。
愛と十戒は一体です。神に留まっているかどうかは、十戒を守るかどうかでわかるのです。
そうでない人は、ただ気分によって「救われた」と思い込んでいるに過ぎません。
これに気づいた多くのクリスチャンが、頑な心を捨て、悔い改めを始めています。すなわち新約を受け、心に律法を書きつけてもらっているのです。そうして心に律法を保つ人を、神様は義と認めてくださるのです。
十戒を守って救われようとする?
十戒を守るクリスチャンに向かって、
「十戒を守って救われようとする者!」と暴言を吐く人がいます。
そのようなそしりを恐れてはいけません。彼らの罵りに驚いてはいけません。
イザヤ書
51:7 義を知る者よ、心のうちにわが律法をたもつ者よ、わたしに聞け。人のそしりを恐れてはならない、彼らのののしりに驚いてはならない。
彼らは「神の戒め」の素晴らしさをまだ知らないのです。救われるために守る苦行のようにしか見ることができないのです。なんとかわいそうな人たちでしょう。
ゆえに、彼らを憐れみ、祈ってあげなければなりません。彼ら自身、そのような言葉に騙されて、キリストの御業を知ることができていないのです。
ヨハネの手紙 第一
3:4 罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです。
3:5 あなたがたが知っているとおり、キリストは罪(律法違反)を取り除くために現れたのであり、この方のうちに罪はありません。
3:6 キリストにとどまる者はだれも、罪(律法違反)を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。
十戒の回復
教会が十戒を守らなくなることを、主はあらかじめ警告しておられました。
マタイの福音書
24:12 また不法(律法違反)がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。
先ほど確認したように、愛と十戒は一体です。
十戒が守られなくなるので、愛が冷えるのです。
当時は、そんなことは信じられないことだったでしょう。
けれど、主が預言されたのですから、そうなることは必至でした。
テモテへの手紙 第二
3:1 しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。
3:2 その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、
3:3 無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、
3:4 裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、
3:5 信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。
見てください。すっかりこのようになってしまいました。十戒が守られなくなったからです。
このような状態から、人類が回復する希望などあるのでしょうか。
たった一つだけあります。
それは、完全なる義の王が来て、私たちの王座に座り、義を回復してくださることです。
考えてもみてください。
もし全世界で十戒が守られるようになったら、どんなに良い世界になるでしょう。
まず、戦争がなくなります。兄弟を憎む人がどこにもいなくなるからです。
盗人がいないので、警察も軍隊も必要ありません。家に鍵をかける必要もなく、物の貸し借りも安心して行われるでしょう。
偽証がないので、騙される人は一人もありません。父や母は大切にされ、将来の心配もなくなります。
隣人が自分自身のように愛されるので、餓死する人はおらず、自殺者もいなくなるでしょう。
貪りはなく、人々は必要最低限の生活で満足し、環境は劇的に改善されます。
そうして世界中に主への感謝が溢れ、週ごとに創造の記念日が祝われるのです。
こんなにもすばらしい神様の恵みを、喜ばないクリスチャンがいるでしょうか。
一体誰が、「救われるために十戒を守る」などと言うでしょう。
そのように言う人たち。
あなたは巧妙な惑わしによって、十戒を嫌いにさせられていたのです。
もう、そんな嘘に騙されてはいけません。
ペテロの手紙 第二
2:21 義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。
2:22 ことわざに、「犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、どろの中にころがって行く」とあるが、彼らの身に起ったことは、そのとおりである。
考えてもみてください。
十戒を嫌うことは、その作者を嫌うことです。
守れていなくてもいいのです。従うことが大切なのです。
そのような人を招くために、主は来られたのではありませんか。
ルカの福音書
5:32 わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。
この招きに応じましょう。
あなたが応じるなら、天では九十九人の正しい人にもまさる喜びがあるのです。
おわりに
十戒を守って救われるのではありません。
神を愛するがゆえに、十戒を守るのです。
ヨハネの手紙 第一
5:3 神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。
十戒を守って救われようとする人など、一人もいません。ただ感謝して守る人がいるだけです。
「十戒を守って救われようとする者!」そう叫んでいたあなたは、騙されていたのです。ありもしないことで敬虔な人々を裁き、自らは泥の中を転がっていたのです。
もう、サタンの手伝いをする必要はありません。
思い込みを捨てて、聖書に立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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