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「救われた」と「救われる」の違い
はじめに
聖書には、救いに関して、「救われた」と表現する箇所と、「救われる」と表現する箇所があります。
この完了形と未来形の救いは、気分によって書き分けられているのでしょうか。
もちろん違います。
ここには、現代の私たちが知っておくべき、大切な真理があります。
ご一緒に聖書から確認してみましょう。
完了形の救い
驚くことに、「救われた」という完了形の救いは、聖書にはほとんどありません。
ほんの一部の箇所だけが、救いを完了形で記しているのです。
エペソ人への手紙
2:8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。
2:9 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。
テトスへの手紙
3:5 わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。
完了形の救いが印象に残っているのは、現代教会がこの二つの聖句を好んで使うからです。
実際には、これ以外に救いを完了形で表現する箇所はほとんどないのです。
未来形の救い
聖書は、圧倒的に救いを未来形で表現しています。
マタイの福音書
10:22 またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
ローマ人への手紙
5:9 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。
コリント人への手紙 第一
3:14 もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、
3:15 その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。
コリント人への手紙 第一
15:2 もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。
ペテロの手紙 第一
4:18 また義人でさえ、かろうじて救われるのだとすれば、不信なる者や罪人は、どうなるであろうか。
思い込みを捨てて、幼子のように聖書を受け入れてみましょう。
私たちは「救われた」状態にありつつも、「救われる」経験をまだしていないことがわかります。
「救われた」と「救われる」は、別のことを指しているからです。
永遠の命についても同じ
永遠の命についても同じです。
すでに得たかのように書かれた箇所と、未来に得るのだと書かれた箇所が、両方存在します。
ヨハネの手紙 第一
5:13 これらのことをあなたがたに書きおくったのは、神の子の御名を信じるあなたがたに、永遠のいのちを持っていることを、悟らせるためである。
これ以外の箇所は、圧倒的に未来のこととして書かれています。
マタイの福音書
19:29 おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。
ヨハネの福音書
6:27 朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」。
ヨハネの福音書
12:25 自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。
ローマ人への手紙
6:22 しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。
テモテへの手紙 第一
6:12 信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。
聖書によれば、私たちはすでに「永遠の命」を持っています。
それでいて、信仰の戦いを戦い抜いたあとに、「永遠の命」を獲得するのです。
矛盾しているように感じますね。
けれど、この二つは、別々のことを指しているのです。
葡萄の木の例え
ヨハネの福音書
15:1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15:2 わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。
15:3 あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。
15:4 わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。
15:6 人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。
キリストは葡萄の木であり、私たちは接ぎ木された枝です。
恵みにより、信仰によって、私たちはキリストにつながりました。
このことを、聖書は「救われた」「永遠の命を持っている」と表現しているのです。
けれども、実を結ばないものは父が取り除くとあるとおり、私たちが実を結ばないなら、その枝は取り除かれてしまいます。
実を結ぶ人は、やがて収穫されます。
このことを、聖書は「救われる」「永遠の命に至る」と表現しているのです。
花婿と花嫁の例え
コリント人への手紙 第二
11:2 わたしは神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している。あなたがたを、きよいおとめとして、ただひとりの男子キリストにささげるために、婚約させたのである。
聖書は、キリストと私たちの関係を、花婿と花嫁の婚約に例えています。
婚約者となったのだから、共同相続人であり、父の子と呼ばれる資格もあります。
このことを、聖書は「救われた」「永遠の命を持っている」と表現しているのです。
けれども、結婚式はまだであることを覚えてください。
結婚式は、キリストが再び来られたときに行われます。
ヨハネの黙示録
19:7 わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。
19:8 彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。
用意をしていた人だけが、この結婚式に参加できます。
マタイの福音書
25:10 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。
このことを、聖書は「救われる」「永遠の命に至る」と表現しているのです。
おわりに
多くの教会が、「救われた」という言葉だけを連呼しています。
それは医者に出会ったことだけで満足し、忠告に聞き従わないで滅びる患者と同じです。
聖書は、私たちがどのようにして「救われる」かを教えているのであって、「救われた」ことで満足するようには教えていません。
大切なのは、実を結ぶこと、用意していることです。
私たちは行いによって「救われた」のではありませんが、行う者だけが「救われる」のです。
ヤコブの手紙
2:14 わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
「救われた」だけで、実を結ばないなら、取り除かれてしまいます。
「救われた」だけで、用意をしていないなら、戸が閉められてしまいます。
そのように聖書は教えているはずです。
ですから、「救われる」ことに目を向けてください。
そのための方法が、聖書にはたくさん書かれています。
今、間違った教えをすべて捨て去って、聖書から真理を取り戻しましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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