はじめに
律法にはいくつかの種類があります。キリストを予表するもの、違反を指し示すもの、民を異邦人から隔てるもの──
その中でも、特別な律法があります。ただそれだけが石の板に書かれ、契約の箱に入れられ、聖所に運び込まれました。
そう、十戒です。
なぜ十戒は特別扱いされるのでしょうか。
そこには、私たちが絶対に知っておかなければならない事実があるのです。
十戒とは何か
その文面は、出エジプト記20章や、申命記5章に書かれています。
これが十戒です。
要約すると、次のようになります。
神のほかに神があってはならない。
偶像を造ってはならない。
神の名をみだりに唱えてはならない。
安息日を聖とせよ。
父と母を敬え。
殺人をしてはならない。
姦淫をしてはならない。
盗んではならない。
偽証してはならない。
隣人のものをむさぼってはならない。
これは、神の義を指し示し、罪とは何であるかを人に教えるものです。
そして、絶対に勘違いしてはならないことがあります。
神の義は、モーセの時代に考え出されたものではないということです。
世の初めから殺人は罪であり、姦淫は罪でした。創造のときから安息日は聖別され、偶像礼拝は忌むべきものとされていました。
神の義は、けっして変わることはないのです。
世の初めからあった律法
十戒は世の初めからあった神の律法です。それを、主はモーセの時代に石の板に書き記されたのです。
世の初めからあったということは、すべての人類を対象にしているということです。
これが、十戒が特別な律法である理由の一つです。
十戒は世の初めからあり、この律法に違反することはすべての人にとって罪なのです。
モーセより前の時代には罪がなかったのではありません。
たとえこの律法を知らなかったとしても、罪を犯した者は滅びるのだと聖書は教えます。
この律法は、良心として人の心に与えられているからです。
人が、生まれながらに殺人や姦淫を悪いものだと感じるのは、このためです。
(とはいえ、この感覚は今やサタンによってずたずたに破壊されています)
あとから加えられた律法
世の初めからあった律法に対し、あとから加えられた律法もあります。
モーセ律法がそうです。
モーセ律法と十戒の違い
本来、離婚することは姦淫の罪になるとイエス様は言われました。
それでも、イスラエルが頑に離婚を希望したので、モーセ律法では以下のようにされたのです。
ほかにも、あとから加えられたものとして、こんなものもあります。
これは民族としてでなくては、けっして守れないものです。
(安息日には未信者に発電所で火を焚かせ、信者はその恩恵に与ればいいというのではありません!)
安息日違反者を死刑にしたり、安息日に火を焚かないことは、あとから加えられた律法であることに注意してください。
約束されていた子孫が来るまで存続するだけのもの
モーセ律法は「約束されていた子孫が来るまで存続するだけのもの」とはっきり書かれています。
モーセ律法の主な役割は、御子のことを予表し、神の民を異邦人の習慣から隔てることでした。
それで、御子が来て、異邦人にも救いが及んだとき、生け贄は廃され、隔ての壁は役割を終えたのです。
十戒も終わったのか
モーセ律法と十戒を区別せず、十戒まで終わったと教える人たちがいます。
しかし、イエス様はそれを完全に否定しています。
天地が滅び行くまでは、この律法は一点、一画も廃れません。
殺してよい、姦淫してよい、神の御名をみだりに唱えてよい、そんな時代は来ないのです。
逆に、こう教える人たちもいます。「一点、一画も廃れないのは、モーセ律法も同じだ」
しかし、一点、一画とは、その文字の一部さえ廃されないという意味です。
生け贄の廃されたモーセ律法がこれに当てはまると考えるのは難しいと思います。
十戒は天地が滅び行くまでなくなりません。これもまた、十戒が特別な律法である理由の一つです。
聖書のあちこちに書かれた十戒
石の板に書かれたものだけが十戒のすべてではありません。
十戒は聖書のあちこちに書かれています。
これも十戒です。十戒の適用例を具体的に述べているのです。
これも十戒です。十戒を要約しているのです。
これが十戒の要約であることは、新約聖書で何度も語られています。
十戒は(また聖書全体も)、神を愛することと、隣人を愛することに要約されるのです。
心の中においても守られるべき十戒
十戒は表面的なものではなく、心においてこそ守られるべきものだと教えられています。
この基準に従わないなら、けっして天国には入れないとイエス様は言われました。
重荷
この基準は、私たちにとって相当な重荷です。
しかし安心してください。その重荷を負った人が招かれているのです。
重荷を負っていない人、基準に従わない人は、招かれていません。
イエス様を十字架につけた自分の罪が嫌いになり、完全な者になりたいと願う人、そのような人にだけ、特別な契約が与えられるのです。
それが、新約です。
新約
私たちの中に十戒が納められ、私たちは神の宮となるのです。
思い出してください。神の宮に納められたのは、十戒だけでした。
十戒のない宮に、神の霊は住まわれません。
十戒が特別な律法である最大の理由がこれです。
十戒は、私たちが神の宮となるために納められるべき、唯一の契約なのです。
おわりに
なぜ十戒が大切なのか、おわかりいただけたでしょうか。
十戒は、世の初めからすべての人に定められた神の義であり、永遠の律法です。また、私たちが神との関係を築くために、心に納められるべき唯一の契約なのです。
主は、これを私たちの心に書き記すと言ってくださるのです。
この恵みを拒む理由があるでしょうか。
恵みを受けるためにも、まずは正しい教えに立ち返りましょう。
それには、自分の目で聖書から確かめるしかありません。
神学を鵜呑みにせず、またこのブログも鵜呑みにせず、はたしてそのとおりかどうか、聖書から確認しましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
(気に入った記事はSNSでシェアしていただければ幸いです)
以下の記事も参考にどうぞ。