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私が日曜礼拝をやめた理由

はじめに

かつて私は日曜礼拝を行っていましたが、今は行っていません。
代わりに、日々の礼拝と、安息日を守っています。

こう言うと、多くのクリスチャンが違和感を持つことはわかります。
私もそうでした

それでも、私は日曜礼拝をやめました。ちゃんとした理由があってのことです。
その理由について、皆さんも知っておいて損はないと思います。

安息日を守る人への以前の印象

前々から、安息日を守る人たちがいることは知っていました。
私はそれを、一般的でない、奇妙な習慣のように思っていました。

また、安息日を必死に守る人たちのことを、神様の恵みも知らない憐れな人たち──と蔑んでいました。

一方で、聖書に出てくる安息日はどこへ行ったのだろうという疑問も、うっすらと感じていました。

しかし最後には、「ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである」などの聖句もあることだし、どの日でも良くなったんだなと適当に考えていました。

人を助けたいのは誰でも同じ

異端と呼ばれる教えや、カルトと呼ばれる宗教が、世の中にはたくさんあります。
クリスチャンであれば、そのような人たちをどうにか助けてあげたいと思ったことが、一度はあるでしょう。

イエス様の時代もそうです。立場は逆ですが、パリサイ人たちは「ユダヤ教の異端を教えるイエス」を何度も注意し、その教えから人々を救い出そうと、必死に努力したのです。

それに対して、イエス様は次のように言われました。

マタイの福音書
7:5 偽善者よ、まず自分の目からはりを取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

誰しも、他人の目のちりは気になるのに、自分の目のはりには気づかないものです。

そして実際、私たちの目には、とんでもない大きさのはりが入っていたのです。

それは、自分が異教の習慣を行っていたという事実です。

異教の習慣を忌み嫌われる神

聖書を読めばわかるとおり、神様は、民のあいだに異教の習慣が入り込むことを、ことごとく忌み嫌われます。

健全な人であれば、教会の中で像を拝んだり、占いをしたり、霊媒をしたり、経を唱えたりする人を見れば、注意して、罪について教えてあげるでしょう。

それなのに、自分が異教の習慣を行っているとしたらどうでしょう。

エレミヤ書
7:9 あなたがたは盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、あなたがたが以前には知らなかった他の神々に従いながら
7:10 わたしの名をもって、となえられるこの家に来てわたしの前に立ち、『われわれは救われた』と言い、しかもすべてこれら憎むべきことを行うのは、どうしたことか

ミトラ教の習慣

かつて教会は、ローマ帝国の迫害に遭っていました。
しかし神の民は、迫害されればされるほど強くなるものです。

そこでサタンは方針を変え、キリスト教を国教化しました。

するとどうでしょう。
権力と一体化した教会は、自分たちの都合に合わせて教えを曲げるようになり、ついにはコンスタンティヌス帝の政策を受け入れ、ミトラ教と融合した新しい宗教、ローマカトリックを生み出してしまったのです。

ローマカトリックは土着の宗教を次々と併合し、巨大な宗教を造り上げていきました。そればかりか、その教えに従わない者をことごとく殺し、支配を確実なものとしていったのです。

けれどその迫害が、再び聖徒を鍛え上げました。
彼らは宗教改革によってローマカトリックの教えを捨てましたが、それでもまだ残っている習慣があります。

日曜礼拝クリスマスがそれです。

日曜日は、太陽神ミトラスの礼拝日でした。
クリスマスもまた、太陽神の誕生を祝う日でした。
これを私たちは取り入れて、礼拝していたのです。

これは神の目に些細ささいなことでしょうか。

エゼキエル書
8:16 彼はまたわたしを連れて、主の家の内庭にはいった。見よ、主の宮の入口に、廊と祭壇との間に二十五人ばかりの人が、主の宮にその背中を向け、顔を東に向け、東に向かって太陽を拝んでいた
8:17 時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、あなたはこれを見たか。ユダの家にとって、彼らがここでしているこれらの憎むべきわざは軽いことであるか──

反論もあります

これは教会にとって都合の悪い事実ですから、数々の反論が存在します。

しゅが日曜に復活したので、日曜が聖日なのだ」とか、
「クリスマスはキリストの誕生を祝う日だ」などの言い分けがそれです。

しかし、聖書のどこにそんな記述があるでしょうか。

日曜礼拝の起源については、大きく二つの説があります。
一つは、使徒の時代に、エルサレムの初代教会で始まったという説。
もう一つは、それから約100年後、ローマの教会で始まったとする説です。
そして圧倒的に、後者のほうが有力です。

そもそも、使徒の時代に日曜礼拝が始まったのだとしたら、それをはっきり聖書に書かない理由がありません。
また、食物規定割礼についての論争は書かれているのに、それより大事な安息日についての論争が書かれていないのはなぜでしょう。

それは、使徒たちが安息日を守っていたからであり、日曜礼拝やクリスマスが、あとからきた異教の習慣だからです。

これは現代におけるヤロブアムの罪です。
しゅのためにと言いながら金の子牛を造り、しゅのためにと言いながら勝手な聖日を作り出しているのです。

列王記 第一
12:33 こうして彼(ヤロブアム)はベテルに造った祭壇に八月の十五日に上った。これは彼が自分で勝手に考えついた月であった。そして彼はイスラエルの人々のために祭を定め、祭壇に上って香をたいた。

聖書のみ

今、心を静めて、言い訳をやめてみてください。
あなたにはまだ、聖書の神様に忠実でありたいという思いはあるでしょうか。

こう考えてみてください。
もしも、キリスト教をまったく知らない人々に、聖書を読んでもらったらどうなるでしょうか。その中に、日曜礼拝を始める人はどれくらい現れるでしょうか。

現れるはずがありません。それは聖書にないからです。
代わりに、第七日が聖日とされ、守られることでしょう。

創世記
2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

出エジプト記
20:11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた

この聖別を守ることこそ、「聖書のみ」に立つ信仰者の姿です。

クリスマスイースターについても同様です。それらは異教の祭りでした。
「でも、キリストの誕生や復活を祝うんだから、いいじゃないか」
そういう意見もあります。

それなら今後、
「ハロウィンは十字架に感謝する日にしよう」
となったらどうしますか。
それがクリスマスであり、イースターなのです。

わざわざ悪霊の日、異教の日にしゅを祝うことを、しゅは喜ばれるでしょうか。

このとおり、私たちの「聖書のみ」という立場は口先だけで、本当は「異教との姦淫かんいん状態」にあるのです。

これは神様が最も嫌われる状態です。

列王記 第二
17:22 イスラエルの人々は、ヤロブアムが行ったすべての罪に歩み、それから離れなかったので
17:23 主は、そのしもべであるすべての預言者を通して告げられたとおり、ついにイスラエルを御前から除かれた。こうして、イスラエルは自分の土地からアッシリアに引いて行かれた。今日もそのままである。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

なぜ日曜礼拝を続けたいのか

はっきり言いましょう。
私たちが日曜礼拝を続けたい理由は、仲間と別れたくないからです。人を恐れ、異端者となること、変人扱いされることを、怖がっているからです。

とはいえ、全教会が土曜日に礼拝をするようになったら、日曜礼拝に残り続ける人は一人もいなくなるでしょう。
それこそ、聖書にではなく、人に従っている証拠です。

あなたは本当に、聖書に従っていますか?
それとも、に従っていますか?

ヨハネの黙示録
2:22 見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。

もう、かたくなになるのはやめましょう。
神様の前に、偽善者であってはいけません。
神様をだまし通せると思うなら、あなたは最後に悲惨な結果を迎えることになるでしょう。

私は自分の非を認めました。
私は聖書に従うのではなく、に従っていました。盲目的にです。
世のことに忙しくて、自分で聖書から学ばず、牧師から学んでいました。
主流派の教えに従っていれば、まず間違いはないだろうと高をくくっていました。
なるだけ楽をして、それで天国へ行ければいいやと思っていたのです。

あなたはどうでしょうか。
どうか、人に惑わされず、聖書のみに立ち返られますように。
あのダニエルのように、たった一人になっても、神様の側に立てますように。

おわりに

日曜礼拝に関する洗脳がとても強力なものであることを、私は知っています。

そこから抜け出せたのは、ひとえに真実を伝え続けてくださった先輩方の働きと、神様の憐れみのゆえです。

多くの人は、最後まで抜け出すことはできないでしょう。
見ていても視ず、聞いても聴かず、悟ることもしないからです。

確かに、日曜礼拝を捨てるなら、多くのものを失うでしょう。特にあなたが牧師なら、攻撃を受け、「裏切り者」「異端者」と罵られるでしょう。

けれど思い出してください。イエス様はあなたのために、あえてそのような人生を送ってくださったではありませんか。また弟子たちも、しゅを信じ、異端者の道を歩んだではありませんか。

日曜礼拝は、主流派の教えではあっても、聖書の教えではありません異教との姦淫かんいんです。
これを捨てられないなら、あなたは狭い門から入ることはできないのです。

どうか、聖書に立ち返ってください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

ヨシュア記
24:14 それゆえ、いま、あなたがたは主を恐れ、まことと、まごころと、真実とをもって、主に仕え、あなたがたの先祖が、川の向こう、およびエジプトで仕えた他の神々を除き去って、主に仕えなさい
24:15 もしあなたがたが主に仕えることを、こころよしとしないのならば、あなたがたの先祖が、川の向こうで仕えた神々でも、または、いまあなたがたの住む地のアモリびとの神々でも、あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい。ただし、わたしとわたしの家とは共に主に仕えます」。

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