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本当のアブラハム契約

はじめに

聖書は、神とアブラハムとの契約について教えます。

この契約は、祝福御国みくにを相続するというものであり、私たちがキリストのものであるなら、私たちもこの約束にあずかるのだと聖書は教えます。

ガラテヤ人への手紙
3:29 もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである

ところで、この契約について、ある間違った教えが主流派の間に広がっています。

その間違いから逃れるためにも、今日、聖書の御言葉みことばを確認しておきましょう。

アブラハムの契約

アブラハムの契約は、聖書に繰り返し書かれています。

創世記
12:1 時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。
12:2 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」。

この契約は、一般に無条件であると教えられます。
というのも、契約の際、切り裂かれた動物の間を通ったのが、神だけだからです。

創世記
15:17 やがて日は入り、暗やみになった時、煙の立つかまど、炎の出るたいまつが、裂いたものの間を通り過ぎた

これは契約が破られた際、罰を負って血を流すのが神だけであることを表しています。

しかし、本当に無条件なのでしょうか。

本当に無条件なのか

どうか、幼子のように聖書を読んでみてください。

創世記
17:9 神はまたアブラハムに言われた、「あなたと後の子孫とは共に代々わたしの契約を守らなければならない。あなたがたのうち
17:10 男子はみな割礼をうけなければならない。これはわたしとあなたがた及び後の子孫との間のわたしの契約であって、あなたがたの守るべきものである
(途中省略)
17:14 割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」。

これが無条件に見えるでしょうか。
私には条件付きのように見えます。割礼がその条件です。

今、冷静になってみてください。主流派の教えがいつも正しいとは限らないのです。
アブラハム契約は、無条件契約ではありません
この契約には「割礼」という条件があります。

そもそも、無条件なら、誰も罰を負うことはないのです。
切り裂かれた動物の間を神が通られたのは、無条件だからではなく、契約が破られた際に、その罰を神だけが負うことを示すためだったのです。

割礼についての本当の教え

まずは安心してください。体に割礼を受けることについては、聖書が明確に否定しています。

ガラテヤ人への手紙
5:2 見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。

肉の割礼は、象徴であり、記念であり、教訓に過ぎません。
神様が本当に求めていたものは、心の割礼です。
そのことが、きちんとモーセの書に書かれています。

申命記
10:16 それゆえ、あなたがたは心に割礼をおこない、もはや強情であってはならない。

また、預言書にも書かれています。

エレミヤ書
9:25 主は言われる、「見よ、このような日が来る。その日には、(肉に)割礼をうけても、心に割礼をうけていないすべての人をわたしは罰する

このように、心の割礼必須であることを、神様はあらかじめ教えておられました。

心の割礼

アブラハムの契約にあずかるには、心の割礼が必須です。
それはどのようなものなのでしょうか。

申命記
30:6 あなたの神、主はあなたとその子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主を愛し、命を得るようにしてくださる

聖書協会共同訳2018

ここに、心に割礼を受けた人は、神を愛するようになると書かれています。

では具体的に、何をすることが神を愛することだと聖書は教えているでしょうか。

ヨハネの手紙 第一
5:3 神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。

神の戒めを守ることです。
反対に、これを守らない人は、心に割礼がないのだと聖書は教えます。

使徒の働き
7:51 ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。
(途中省略)
7:53 あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」。

このように、
心に割礼がある人は、神の戒めを守ります。
心に割礼がない人は、神の戒めを守りません。

大切なのは、神の戒めを守ることなのです。
だからこそ、次のように書かれているのです。

コリント人への手紙 第一
7:19 (肉に)割礼があってもなくても、それは問題ではない。大事なのは、ただ神の戒めを守ることである

アブラハムの契約にあずかる者

アブラハムの契約に必要な「心の割礼」を、あなたは受けていたでしょうか。

ローマ人への手紙
2:26 だから、もし無割礼の者が律法の規定を守るなら、その無割礼は割礼と見なされるではないか。

このとおり、しゅ割礼とみなされるのは、肉の割礼ではなく、心の割礼、すなわち、神の戒めに従う従順な心です。

アブラハムにはそれがありました。

創世記
26:4 またわたしはあなたの子孫を増して天の星のようにし、あなたの子孫にこれらの地をみな与えよう。そして地のすべての国民はあなたの子孫によって祝福をえるであろう。
26:5 アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」。

モーセ以前から守られていたこの戒めとは何でしょう。
それは十戒じっかいです。これを聖書は「神の戒め」と呼んでいるのです。

聖書を読めばわかるとおり、
殺人や姦淫かんいん世の初めから罪でした。
安息日は世の初めから聖別されていました。
この初めからあった律法を、しゅは守るように教えているのです。

マタイの福音書
19:8 イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった
19:9 そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。

アブラハムの信仰

アブラハムの契約は、アブラハムの信仰に従う人に保証されます。

ローマ人への手紙
4:16 このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである──

あなたはアブラハムの信仰に従っていたでしょうか。

創世記
15:6 アブラムは主を信じ(アーマン)た。主はこれを彼の義と認められた。

ここで使われている「アーマン」という言葉は、「忠実に仕える」「真実を尽くす」などの意味を持つ言葉です。

別の箇所を見てみましょう。

ネヘミヤ書
9:7 あなたは主、神でいらせられます。あなたは昔アブラムを選んでカルデヤのウルから導き出し、彼にアブラハムという名を与え、
9:8 彼の心があなたの前に忠信(アーマン)なのを見られて、彼と契約を結び──

これが「アーマン」です。
アブラハムは決して信じるだけで義と認められたのではありません
何もかも捨てて従う忠信によって義と認められたのです。

同じ信仰を、あなたは持っていたでしょうか。

安心してください。
その信仰は神から与えられるものです。

エペソ人への手紙
2:8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である

本当の信仰を受け取りましょう

アブラハムは信じるだけで義と認められたのではありません
「アーマン、忠信」によって、義と認められたのです。

もうおわかりかと思いますが、
聖書は「信じるだけで救われる」とは教えていません。
従順に従う人だけが救われるのです。

ヘブル人への手紙
5:8 彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、
5:9 そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり──

ヨハネの福音書
3:36 御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。

これが聖書の教えです。
恵みによりますが、無条件ではありません。

「あなたが真っ当に歩むなら、死刑を取り消してあげよう」という宣告を考えてみてください。死刑囚にとって、これは紛れもなく恵みです。しかし、無条件ではありません。

「恵みであること」「無条件であること」は、必ずしも一致するわけではないのです。

それなのに
「俺の歩みが関係するなら、それは恵みとは言わない!」
そう叫ぶ死刑囚を、一体どうしたらいいのでしょう。

もう、かたくなになる必要はありません。
この歩みは難しいものではないのです。
私たちの罪の刑罰は、しゅが負ってくださいました。そのために、しゅは切り裂かれた動物の間を通られたのです。

この犠牲に感謝し、しゅの喜ばれる生き方をしたいと願う人に、本物の信仰は与えられるのです。

この恵みを毎日受け取りましょう。
しゅを求め続ける人を、しゅはけっして見捨てることはないからです。

おわりに

本当のアブラハム契約について、おわかりいただけたでしょうか。

聖書の教えるアブラハム契約は、条件付きの契約です。
その条件とは、割礼です。

そして神の目に割礼とみなされるのは、肉の割礼ではなく、心の割礼です。

心の割礼とは、神の戒めへの従順な心を持つことです。

アブラハムにはそれがありました。
同じ信仰を持つ人に、この約束は保証されるのです。

念のために言っておきますが、
私たちが律法を守れたかどうかで救われるのではありません。
アブラハムと同じ信仰によって救われるのです。

その信仰は、神の賜物たまものであり、恵みによるものです。
正しく求める人には、誰にでもこの恵みは与えられます。

この恵みを受け取るためにも、今日、人の教えを脇に置いて、自分の目で聖書を確かめてみてください。
主流派の教えにも間違いはあるのです。
同じように、このブログにも間違いはあるでしょう。

私が言いたいのはこれだけです。
聖書に立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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