本当のアブラハム契約
はじめに
聖書は、神とアブラハムとの契約について教えます。
この契約は、祝福と御国を相続するというものであり、私たちがキリストのものであるなら、私たちもこの約束に与るのだと聖書は教えます。
ところで、この契約について、ある間違った教えが主流派の間に広がっています。
その間違いから逃れるためにも、今日、聖書の御言葉を確認しておきましょう。
アブラハムの契約
アブラハムの契約は、聖書に繰り返し書かれています。
この契約は、一般に無条件であると教えられます。
というのも、契約の際、切り裂かれた動物の間を通ったのが、神だけだからです。
これは契約が破られた際、罰を負って血を流すのが神だけであることを表しています。
しかし、本当に無条件なのでしょうか。
本当に無条件なのか
どうか、幼子のように聖書を読んでみてください。
これが無条件に見えるでしょうか。
私には条件付きのように見えます。割礼がその条件です。
今、冷静になってみてください。主流派の教えがいつも正しいとは限らないのです。
アブラハム契約は、無条件契約ではありません。
この契約には「割礼」という条件があります。
そもそも、無条件なら、誰も罰を負うことはないのです。
切り裂かれた動物の間を神が通られたのは、無条件だからではなく、契約が破られた際に、その罰を神だけが負うことを示すためだったのです。
割礼についての本当の教え
まずは安心してください。体に割礼を受けることについては、聖書が明確に否定しています。
肉の割礼は、象徴であり、記念であり、教訓に過ぎません。
神様が本当に求めていたものは、心の割礼です。
そのことが、きちんとモーセの書に書かれています。
また、預言書にも書かれています。
このように、心の割礼が必須であることを、神様はあらかじめ教えておられました。
心の割礼
アブラハムの契約に与るには、心の割礼が必須です。
それはどのようなものなのでしょうか。
ここに、心に割礼を受けた人は、神を愛するようになると書かれています。
では具体的に、何をすることが神を愛することだと聖書は教えているでしょうか。
神の戒めを守ることです。
反対に、これを守らない人は、心に割礼がないのだと聖書は教えます。
このように、
心に割礼がある人は、神の戒めを守ります。
心に割礼がない人は、神の戒めを守りません。
大切なのは、神の戒めを守ることなのです。
だからこそ、次のように書かれているのです。
アブラハムの契約に与る者
アブラハムの契約に必要な「心の割礼」を、あなたは受けていたでしょうか。
このとおり、主に割礼とみなされるのは、肉の割礼ではなく、心の割礼、すなわち、神の戒めに従う従順な心です。
アブラハムにはそれがありました。
モーセ以前から守られていたこの戒めとは何でしょう。
それは十戒です。これを聖書は「神の戒め」と呼んでいるのです。
聖書を読めばわかるとおり、
殺人や姦淫は世の初めから罪でした。
安息日は世の初めから聖別されていました。
この初めからあった律法を、主は守るように教えているのです。
アブラハムの信仰
アブラハムの契約は、アブラハムの信仰に従う人に保証されます。
あなたはアブラハムの信仰に従っていたでしょうか。
ここで使われている「アーマン」という言葉は、「忠実に仕える」「真実を尽くす」などの意味を持つ言葉です。
別の箇所を見てみましょう。
これが「アーマン」です。
アブラハムは決して信じるだけで義と認められたのではありません。
何もかも捨てて従う忠信によって義と認められたのです。
同じ信仰を、あなたは持っていたでしょうか。
安心してください。
その信仰は神から与えられるものです。
本当の信仰を受け取りましょう
アブラハムは信じるだけで義と認められたのではありません。
「アーマン、忠信」によって、義と認められたのです。
もうおわかりかと思いますが、
聖書は「信じるだけで救われる」とは教えていません。
従順に従う人だけが救われるのです。
これが聖書の教えです。
恵みによりますが、無条件ではありません。
「あなたが真っ当に歩むなら、死刑を取り消してあげよう」という宣告を考えてみてください。死刑囚にとって、これは紛れもなく恵みです。しかし、無条件ではありません。
「恵みであること」と「無条件であること」は、必ずしも一致するわけではないのです。
それなのに
「俺の歩みが関係するなら、それは恵みとは言わない!」
そう叫ぶ死刑囚を、一体どうしたらいいのでしょう。
もう、頑になる必要はありません。
この歩みは難しいものではないのです。
私たちの罪の刑罰は、主が負ってくださいました。そのために、主は切り裂かれた動物の間を通られたのです。
この犠牲に感謝し、主の喜ばれる生き方をしたいと願う人に、本物の信仰は与えられるのです。
この恵みを毎日受け取りましょう。
主を求め続ける人を、主はけっして見捨てることはないからです。
おわりに
本当のアブラハム契約について、おわかりいただけたでしょうか。
聖書の教えるアブラハム契約は、条件付きの契約です。
その条件とは、割礼です。
そして神の目に割礼とみなされるのは、肉の割礼ではなく、心の割礼です。
心の割礼とは、神の戒めへの従順な心を持つことです。
アブラハムにはそれがありました。
同じ信仰を持つ人に、この約束は保証されるのです。
念のために言っておきますが、
私たちが律法を守れたかどうかで救われるのではありません。
アブラハムと同じ信仰によって救われるのです。
その信仰は、神の賜物であり、恵みによるものです。
正しく求める人には、誰にでもこの恵みは与えられます。
この恵みを受け取るためにも、今日、人の教えを脇に置いて、自分の目で聖書を確かめてみてください。
主流派の教えにも間違いはあるのです。
同じように、このブログにも間違いはあるでしょう。
私が言いたいのはこれだけです。
聖書に立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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