私たちの中に潜む党派心
はじめに
多くのクリスチャンが、心から信じていない御言葉があります。
以下のような御言葉がそれです。
このような厳しい教え、救いの確定を否定するような教えを、嫌う人たちがいます。
それである教会は、次のように教えるようになりました。
「このようなことをしていても、恵みのゆえに神の国を継ぐことができる」
すると人々は、そう教える教会にばかり集まるようになりました。
そしていつしか、それは主流派となりました。
もはや彼らは、聖書の言葉に耳を傾けません。
これでいいのでしょうか。
少なくとも、これだけは覚悟してください。
人がどんなに教えを変えようとも、聖書に書かれたことはすべて実現するのです。
勝手に付け加えてはいけない
私たちは、あまりにも簡単に聖書に付け加えるようになってはいないでしょうか。
そうであってはいけません。
これらの聖句は、いずれもクリスチャンに向けて語られた言葉です。
たとえ私たちが耳を背けても、聖書の言葉が変わるわけではありません。
耳を背けるか、従うか、二つに一つです。
党派心
最初の聖句を、もう一度見てみましょう。
党派心を持つ人は、神の国を継ぐことがない、そうはっきり書かれています。
党派心とは、なにも党派を造ろうとすることだけではありません。
党派に属することや、人の造った教理に従うことも、党派心なのです。
パリサイ派の一番の失敗は何だったでしょうか。
それは、教理を定めたことです。
安息日に長い距離を歩いてはいけない。癒やしてもいけない。床を畳んでもいけない。すべて付け足された教理です。
そのせいで、安息日に歩いたり、癒やしたり、床を畳ませたりしたイエス様を、メシアとして受け入れることができなかったのです。
教理は、ときに真理を破壊します。
現代の私たちはどうでしょうか。
教派の教えや、聞いてきた教え、そのようなもののために、真理を受け入れなくなってはいないでしょうか。
それが党派心です。
「このようなことをする人は、神の国を継ぐことがない」このことを、しっかりと心に留めてください。
実によって見分けよ
聖書は、偽預言者や偽教師を、実によって見分けよと教えています。
彼らの教えが、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を結ばせているかどうかで見分けるのです。
他人のことは見分けられないかもしれません。羊の皮を被っているからです。
しかし、あなたの心は探れるはずです。
あなたがぜんぜん実を結んでいないのなら、教えが間違っている可能性があります。
教えによって見分けよ
あなたが聖書に立ち返るなら、教えによって見分けることもできるでしょう。
この手紙に書かれた教えを聞くかどうかで、真理の霊なのか、迷いの霊なのかが、区別できるのです。
あなたの信頼する教師は、次の教えに「はい」と答えるでしょうか。
罪とは律法に違反することであり、罪を犯す者は誰も、キリストを知らないのだと書いてあります。
もし「はい」と答えられないとしたら、それは迷いの霊です。
聖書が間違っているのではなく、教理が間違っているのです。
今、へりくだって聖書に立ち返るときが来ています。
私たちは長い歴史の中で、たくさんの教理を作り出し、そのたびに聖書から遠ざかって来たのかもしれません。
もう、何かを付け足してはいけません。
勝手な解釈をするよりも、幼子のように「はい」と答える人になりましょう。
おわりに
教派の教えにこだわったり、教理を優先したりすること、それが党派心です。
そのようなことをする人は、神の国を継ぐことはありません。
それは人が造ったものであり、教派ごとに教えが異なっていることは、誰もが知っているはずです。
それなのに、どうしてそんなものを握りしめてしまうのでしょう。
教派を捨てることが怖いですか?
仲間を失うことが怖いですか?
主流派に逆らって、異端と呼ばれることが怖いですか?
臆病な人、信じない人は、十戒を守らない人とともに、火と硫黄の池に投げ込まれてしまいます。
主を信頼しましょう。
もう、人間の教えに従ってはいけません。
このブログも例外ではないことを覚えてください。
教えが正しいかどうかは、あなたが聖書から確認するしかないのです。
聖書に立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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