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準備はできていますか?
はじめに
「信じるだけで救われる」そのような説教が、多くの教会で聞かれます。
これはキリスト教の常識と言ってもいいでしょう。
では、その聖書箇所を見てみましょう。
──ありません。
そのような聖句は、聖書のどこにも存在しないのです。
「信じるだけ」と検索しても、決して出てくることはありません。
![](https://assets.st-note.com/img/1709604482635-j8pkbD6Alj.png)
この事実は、「信じるだけで救われる」という教えが、聖書の教えではないことを表しています。
ショックなことですが、まずは真実に目を向けることから始めましょう。
救いの教え
聖書には、「こういう者が救われる」という教えがたくさん書かれています。
マタイの福音書
10:22 またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
マタイの福音書
19:29 おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。
マタイの福音書
7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
その中には、次のような聖句もあります。
使徒の働き
16:31 ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。
これが「信じるだけで救われる」の正体です。
「だけ」とはどこにも書かれていません。
ヨハネの福音書
3:15 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。
聖書は「信じる者が救われる」と教えているのであって、
「信じるだけで救われる」とは教えていないことに注意してください。
「信じるだけ」と「信じる者」の違い
あるところに、どんな患者でも救ってしまう名医がいました。
そこへある日、今にも死にそうな顔をした男が訪ねてきました。
「先生、どうか助けてください。とても具合が悪いのです」
医者はその男を診察し、こう言いました。「大丈夫だ、私を信じなさい」
すると男は涙ながらに言いました。「信じます」
それで医者は次のように忠告しました。「原因は酒だ。酒を捨てれば、必ず良くなる」
さて、この男が医者を信じるならどうするでしょう。
「信じるだけで治るそうだ」そう言って、酒を飲み続けるでしょうか。
それとも、医者の忠告に従って、そのとおりに行うでしょうか。
これが「信じるだけ」と「信じる者」の違いです。
ところで、私たちの医者はこう忠告しています。
マタイの福音書
16:24 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
16:25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。
自分を捨てて従う者だけが命を得る
命を得るのは、週に一度、教会に通っている人ではありません。
自分を捨てて主に従うようになった人です。
マタイの福音書
10:37 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
10:38 また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。
10:39 自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。
この教えに違和感を感じる人もいるでしょう。
それは、教会がそのように教えていないからです。
けれども、そのように教える教会も、ちゃんと存在することを知ってください。
もしもあなたが、聖書のとおりに教える教会に通っていれば、決して違和感を感じなかったはずです。
言うまでもありませんが、聖書の教えはすべて本当です。
自分を十字架で殺し、キリストのものとなって従う人でなければ、決して命を得ることはないのです。
どうか、このことから目をそらさないでください。
嫌われることを覚悟の上で、お知らせしているのです😢
誰もロトの妻のようになってほしくないからです。
もちろん、イエス様もそう思っておられます。
ルカの福音書
17:32 ロトの妻のことを思い出しなさい。
17:33 自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。
完全に従うか、そうでないか
聖書は、決して二心を認めてはいません。
マタイの福音書
6:24 だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。
ヤコブの手紙
4:4 不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。
ルカの福音書
14:33 それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。
100%神に従うか、そうでないか、二つに一つなのです。
90%しか従わない人を、主が迎えに来ることはありません。
初めの教会は、このことをきちんと教えていたではありませんか。
ヨハネの手紙 第一
2:15 世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。
2:16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。
2:17 世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。
「信じるだけ」とは、一体何でしょう。
そんな教えは聖書にないのです。
今ならまだ間に合います。
どうか、自分が本当に神の言葉を信じ、その教えを愛しているか、心を探ってみてください。
主はあなたを招いておられます。
マタイの福音書
4:19 イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。
それに応えた人だけが、主のものとなるのです。
ローマ人への手紙
14:7 すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。
14:8 わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。
おわりに
ヨハネの福音書
3:36 御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。
「信じるだけ」という教えは、聖書とはほど遠い教えです。
その間違った教えのために、多くの人が準備できておらず、滅びの道を歩んでいます。
もしも今夜、主が来られたらどうなるでしょう。
今準備していなければ、もうその機会は永遠に来ないのです。
「教会の教えが間違っているなんて、信じられない」
そう思う気持ちはよく分かります。
しかし、あなたは聖書を信じているはずです。
そこに希望があります。
世の中には様々な教派があって、それぞれに異なった教えを語っているのです。
そして残念なことに、より生ぬるい教えが人気を得て、今では厳しい教えをする教会はほとんどなくなってしまいました。
「もしかして、自分が間違っているかも」と思うことは、決して恥ずかしいことではありません。
恥ずかしいのは、傲慢になって真理を拒絶した、パリサイ人の姿です。
自分を低くする者を、主は高くしてくださいます。
心を入れ替えて幼子のようにならなければ、誰も天国に入ることはできないのです。
このブログを信じる必要はありません。
ただ、ご自身のためにも、聖書を確かめてみてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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