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現代の免罪符
はじめに
免罪符の教えが間違いであることは、すべてのクリスチャンが知っていることと思います。
念のために確認しておきますと、免罪符とは、ローマカトリックの教皇が発行する証書で、これを購入することによって、罪の刑罰が免除される、というものです。
当然、これは聖書の教えではありません。
ところが現代、この免罪符が形を変えて配られてはいないでしょうか。
「救いの切符」という考え方がそれです。
救いの切符
「救いの切符」と一概にいっても、明確な定義があるわけではないので、正しく用いるなら、別段問題のない言葉なのかもしれません。
とはいえ、救いの切符という考え方には、「私たちの天国行きは確定しており、あとは出発を待つだけ」といった思想があるように思います。
だとしたら、それは免罪符と何が違うのでしょうか。
考えてもみてください。
免罪符は、高額な金銭を要求したから問題だったのでしょうか。
それとも、紙という形で配られたから問題だったのでしょうか。
いいえ。
免罪符の問題は、聖書と違う教えによって、救いを与えたことにあるのです。
ペテロの手紙 第二
2:1 しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。
2:2 また、大ぜいの人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである。
イエス様は何と言っているか
ある人が、イエス様にこう尋ねました。
ルカの福音書
13:23 すると、「主よ。救われる者は少ないのですか。」と言う人があった。イエスは、人々に言われた。
13:24 「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。
「入れなくなる人が多いので、努力せよ」これがイエス様の教えです。
このことは、教会できちんと教えられているでしょうか。
ここで「努力」と訳された言葉は、「戦って勝ち得よ(アゴニゾマイ)」という強烈な言葉です。しかも原文では、文の先頭に、命令形で書かれています。「奮闘努力せよ!」と言っているのです。
「天国行きの列車を待つだけ」とは、ずいぶん違う教えです。
弟子たちの考えはどうか
当然、弟子たちもイエス様と同じ考えでした。
テモテへの手紙 第一
6:12 信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。
ピリピ人への手紙
2:12 わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。
するとある人はこう言うでしょう。
「救いは恵みによるのだ! 努力や行いが必要なら、それは恵みとは言わない!」
本当にそうでしょうか。
恵みとは何か
救いの切符を握りしめた人にとって、恵みとは「何もしなくても天国に行けること」なのでしょう。
しかし「恵み」とは、もっと良いものであると聖書は教えます。
ペテロの手紙 第一
2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義に生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
恵みとは、私たちが罪を離れ、義に生きるようになることです。
これこそが救いであり、私たちの内側の癒やしなのです。
間違った教えは、この恵みから私たちを遠ざけています。
行いによるのではない
するとある人はこう言いたくてうずうずしてくるでしょう。
「『恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなる』と書いてある!(ローマ11:6)」
そのとおりです。
誰も「行いによって救われる」などとは言っていません。
大切なのは、恵みとは何かを知り、それを受け取ることです。
聖書の教える恵みとは、私たちが罪を離れ、義に生きるようになることです。
「起きて歩け」と言われた人が、もし信じて歩かなかったら、どうしてこの癒やしを受け取れるでしょう。
ヨハネの手紙 第一
3:6 すべて彼におる者は、罪を犯さない。すべて罪を犯す者は彼を見たこともなく、知ったこともない者である。
罪を離れ、義に生きていないなら、恵みを受けていないのです。
間違った教えのせいで、十字架の恵みを受け損なっているのです。
おわりに
現代、多くのクリスチャンが免罪符を握らされています。
間違った教えのために、恵みを受け損なっているのです。
そんなものは破り捨てて、聖書の教えに立ち返らなければなりません。
私たちは、罪を離れ、義に生きることができます。
このことを信じて歩むなら、私たちは必ずその恵みを受け取ることができます。
ヨハネの手紙 第一
3:8 罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。
神の力を信じて、罪を犯さない者になりましょう。
私たちはベンチに座って汽車を待っているのではなく、戦場で戦っていなければならないのです。
ヨハネの手紙 第一
5:3 神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。
5:4 なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。
信じる人は、戒めを守り、罪に勝利できる人に変えられます。
眠っていては、この恵みを受け取れません。
起きて、歩きましょう。
人の教えを鵜呑みにしてはいけません。
このブログさえも信じてはいけません。
ただ、聖書を開いてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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