
なぜ救い主が必要なのか
はじめに
私たちは、なぜ「救い主」を必要とするのでしょうか。
自分は「救われた」と思っているクリスチャンでも、「救い主」は必要なのでしょうか。
ご一緒に、聖書から確認してみましょう。
私たちは裁きを受ける
人には、一度死ぬことと、裁きを受けることが定まっている、そう聖書は教えます。
ヘブル人への手紙
9:27 そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、
この裁きによって有罪とされる人は、火に投げ込まれると聖書は教えます。
マタイの福音書
13:49 世の終りにも、そのとおりになるであろう。すなわち、御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分け、
13:50 そして炉の火に投げこむであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
ここで注意してください。
義人だけが残るのです。
これこそが、私たちに「救い主」が必要な理由です。
天国に入る基準
天国に入るには、私たちはどれほどの義人になる必要があるのでしょうか。
マタイの福音書
5:20 わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。
パリサイ人とは、人類の歴史上、最も厳格に律法を守っていた人々です。それでも足りないとイエス様は言うのです。
その理由は、次のように語られています。
マタイの福音書
5:21 昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:22 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。
マタイの福音書
5:27 『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:28 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
十戒をどんなに厳格に守っていても、心において守られていないなら意味がないというのです。
心が悪に傾いている人が皆、天国に行くなら、そこは地上と何も変わりません。
罪を愛する人が天国で暮らすなら、それは苦痛でしかないでしょう。
それで、心に罪を抱く人は、天国に入れないのです。
救うために来た
私たちの主は、裁きを行う前に、世を救うために来られました。
ヨハネの福音書
3:17 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。
3:18 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。
この方を信じる者は裁かれない。
何という恵みでしょう。この方が神そのものであり、この方にはすべてを捨てて従う価値があると信じる人は、裁かれないと約束されているのです。
多くのクリスチャンが勘違いしていますが、これはけっして、罪を愛する人が天国へ行けるようになった、というのではありません。
真にキリストに価値を見いだす人は、もはや罪を愛さなくなり、義を愛するようになることが保証されているということです。
聖霊の導きによって、罪を犯さない者になれる
私たちが罪の中にあっても、義を求めていることの保証として、聖霊が与えられます。
この聖霊の導きに従うなら、けっして肉の欲を満たすことはないと聖書は保証しています。
ガラテヤ人への手紙
5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
これこそが、本当の十字架の恵みです。多くのクリスチャンが、この恵みを見逃しています。
罪を犯さなくなること、これこそが十字架の恵みであり、癒やしであると聖書は教えているのです。
ペテロの手紙 第一
2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義に生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
「彼を信じる者は、裁かれない」と書かれた理由は、まさにこれです。
「求めなさい」と聖書に何度も書かれたものは、これなのです。
おわりに
なぜ「救い主」が必要なのか、おわかりいただけたでしょうか。
それは、すべての人に、一度死ぬことと、裁きを受けることが定められており、その裁きを通過するには、「律法学者やパリサイ人にまさる義」が必要だからです。
この義を与えてくださる方は、キリストをおいてほかにはありません。
使徒の働き
4:12 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。
私たちが罪を告白するなら、その罪は赦されます。神様は人の失敗を問われません。
神様が問われるのは、義としてくださる方を信じず、求めなかったことだけです。
この方に従って命を得ようとしなかったことだけです。
信じましょう。求めましょう。
この方は、従順な人に、ご自身の義をお与えになります。
ヨハネの手紙 第一
3:6 キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。
もし指導者がこの教えを否定しているなら、その教えに従うことをやめ、聖書に立ち返る必要があります。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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