なぜ救い主が必要なのか
はじめに
私たちは、なぜ「救い主」を必要とするのでしょうか。
自分は「救われた」と思っているクリスチャンでも、「救い主」は必要なのでしょうか。
ご一緒に、聖書から確認してみましょう。
私たちは裁きを受ける
人には、一度死ぬことと、裁きを受けることが定まっている、そう聖書は教えます。
この裁きによって有罪とされる人は、火に投げ込まれると聖書は教えます。
ここで注意してください。
義人だけが残るのです。
これこそが、私たちに「救い主」が必要な理由です。
天国に入る基準
天国に入るには、私たちはどれほどの義人になる必要があるのでしょうか。
パリサイ人とは、人類の歴史上、最も厳格に律法を守っていた人々です。それでも足りないとイエス様は言うのです。
その理由は、次のように語られています。
十戒をどんなに厳格に守っていても、心において守られていないなら意味がないというのです。
心が悪に傾いている人が皆、天国に行くなら、そこは地上と何も変わりません。
罪を愛する人が天国で暮らすなら、それは苦痛でしかないでしょう。
それで、心に罪を抱く人は、天国に入れないのです。
救うために来た
私たちの主は、裁きを行う前に、世を救うために来られました。
この方を信じる者は裁かれない。
何という恵みでしょう。この方が神そのものであり、この方にはすべてを捨てて従う価値があると信じる人は、裁かれないと約束されているのです。
多くのクリスチャンが勘違いしていますが、これはけっして、罪を愛する人が天国へ行けるようになった、というのではありません。
真にキリストに価値を見いだす人は、もはや罪を愛さなくなり、義を愛するようになることが保証されているということです。
聖霊の導きによって、罪を犯さない者になれる
私たちが罪の中にあっても、義を求めていることの保証として、聖霊が与えられます。
この聖霊の導きに従うなら、けっして肉の欲を満たすことはないと聖書は保証しています。
これこそが、本当の十字架の恵みです。多くのクリスチャンが、この恵みを見逃しています。
罪を犯さなくなること、これこそが十字架の恵みであり、癒やしであると聖書は教えているのです。
「彼を信じる者は、裁かれない」と書かれた理由は、まさにこれです。
「求めなさい」と聖書に何度も書かれたものは、これなのです。
おわりに
なぜ「救い主」が必要なのか、おわかりいただけたでしょうか。
それは、すべての人に、一度死ぬことと、裁きを受けることが定められており、その裁きを通過するには、「律法学者やパリサイ人にまさる義」が必要だからです。
この義を与えてくださる方は、キリストをおいてほかにはありません。
私たちが罪を告白するなら、その罪は赦されます。神様は人の失敗を問われません。
神様が問われるのは、義としてくださる方を信じず、求めなかったことだけです。
この方に従って命を得ようとしなかったことだけです。
信じましょう。求めましょう。
この方は、従順な人に、ご自身の義をお与えになります。
もし指導者がこの教えを否定しているなら、その教えに従うことをやめ、聖書に立ち返る必要があります。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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