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不信仰とはこのことです
はじめに
聖書の教える不信仰とは何でしょう。
ある人は、救いの確定を否定する人のことを、不信仰だと非難します。
不信仰とは、そういうことでしょうか。
聖書から確かめてみましょう。
私たちを神の愛から引き離すものはない
ローマ人への手紙
8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
8:39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。
ハレルヤ! 神の愛から私たちを引き離すものは何もありません。
とはいえ、これを、裁きのときに無罪とされる理由に使うことができるのでしょうか。
神はすべての人を愛し、すべての人が救われることを望んでおられます。
だから、全員が救われるのでしょうか。
いいえ。
聖書は間違いなく、裁きと、永遠の滅びについて教えています。
神様は、愛する者のために偽証して、無罪とするようなお方ではありません。
そのようなことは、神ご自身が、罪と定めておられます。
私たちは新しく造られた
聖書は、私たちのことを、新しく造られた者と教えます。
コリント人への手紙 第二
5:17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
この新しい創造が、逆戻りすることなどあるのでしょうか。
はい。
あなたが真の信仰者であるなら、自分にとって都合の良い聖句だけを見てはいけません。
ペテロの手紙 第二
2:20 彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。
このとおり、聖霊により一新された人でも、再び汚れに巻き込まれるなら、初めよりも悪くなることを、聖書ははっきりと教えています。
サウル王がそのいい例です。
サムエル記 第一
16:14 さて主の霊はサウルを離れ、主から来る悪霊が彼を悩ました。
新しいものでも、手入れを怠るなら、やがて古びていくということです。
私たちは義と認められた
ローマ人への手紙
5:1 このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。
一度、義と認められた人が、再び有罪とされることなどあるのでしょうか。
はい。
ヘブル人への手紙
10:26 もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。
10:27 ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。
罪を赦された人でも、そのあとに犯す罪を悔い改めないなら、裁判で有罪になるのは当たり前です。
だからこそ、熱心になって悔い改めよと聖書は教えているのです。
ヨハネの黙示録
3:19 すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。
私たちは永遠の命を持っている
聖書は、私たちが永遠の命を持っていると教えます。
ヨハネの手紙 第一
5:13 これらのことをあなたがたに書きおくったのは、神の子の御名を信じるあなたがたに、永遠のいのちを持っていることを、悟らせるためである。
これを取り去ることで、神様が約束を破ることなどあるのでしょうか。
いいえ。
約束を破るのは、私たちのほうです。
主の約束は、神の戒め(十戒)を守る者となって、永遠の命を得なさいというものです。
マタイの福音書
19:16 すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
19:17 イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
19:18 彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな──
悔い改めとは、このことです。
神の戒めを守らないなら、その人は悔い改めていないことを覚えてください。
ヨハネの手紙 第一
3:4 罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです。
3:5 あなたがたが知っているとおり、キリストは罪を取り除くために現れたのであり、この方のうちに罪はありません。
3:6 キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。
ここで、ある疑問が浮かぶ人もいるでしょう。
「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのでは?」
そのとおりです。
しかし、その意味を履き違えてはいないでしょうか。
ローマ人への手紙
3:31 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。
パウロの言いたいことは、断じて、律法を無効にすることではありません。
人が形式的に律法を守ったところで、義は勝ち得ないと言っているのです。
だから、信仰によって律法を確立しなさい。これが聖書の教えです。
そのためには、律法に服従し、それを心に書きつけてもらう必要があります。
そうしてこそ、罪から解放され、義の僕となれるのです。
ローマ人への手紙
6:17 しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、
6:18 罪から解放され、義の僕となった。
神の戒めに服従しない人に、この約束は成就しないことを覚えてください。
不信仰とは
不信仰とは、けっして、救いの確定を否定することではありません。
救いを失う可能性については、聖書がはっきりと警告していることだからです。
不信仰とは、それらの言葉を信じないことです。
次の言葉を、あなたは信じているでしょうか。
ヘブル人への手紙
6:5 また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、
6:6 そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。
確かに、救いは神様からのプレゼントであり、恵みです。
しかし、そこに条件はないのでしょうか。
ヨハネの手紙 第一
3:15 あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。
「恵みならば条件などないはず」という決めつけを、私たちは払拭しなければなりません。
マタイの福音書
6:14 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。
6:15 もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。
これらの言葉から離れるなら、私たちは救いを失ってしまいます。
そのような人を、聖書は不信仰と呼んでいるのです。
実際、不信仰な人々が教会に忍び込んできて、神の恵みを、放縦に変えてしまいました。
ユダの手紙
1:4 そのわけは、不信仰な人々がしのび込んできて、わたしたちの神の恵みを放縦な生活に変え、唯一の君であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからである。彼らは、このようなさばきを受けることに、昔から予告されているのである。
不信仰とは、このような人たちであることを覚えてください。
テトスへの手紙
1:15 きよい人には、すべてのものがきよい。しかし、汚れている不信仰な人には、きよいものは一つもなく、その知性も良心も汚れてしまっている。
1:16 彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である。
おわりに
不信仰とは、神の言葉を信じないことです。
救いの確定を否定することではありません。
多くのクリスチャンが、自ら不信仰に陥りながら、真理に立つ人々を、不信仰だと罵っています。
どうか皆さん、自分の信仰を吟味してください。
へりくだりの心を失ってはいないか、探ってみてください。
自分の理解と違うものを、「間違い」と決めつける人の、なんと多いことでしょう。
それはあなたの考えと違うだけであって、間違いとは限らないのです。
私自身、そのことに気づかされ、考えを変えてきた一人です。
このブログを信じる必要はまったくありません。
間違いのない言葉は、神の言葉、聖書だけです。
どうか、聖書を確かめてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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