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キリストは何のために死んだのか

はじめに

キリストが何のために死んだのか、皆さんは聖書のとおりに答えられるでしょうか。

聖書には、大きく四つの理由が書かれています。

その四つを受け入れた人だけが、本物のクリスチャンといえます。

今、本物のクリスチャンとなるために、聖書からその理由を確認してみましょう。

その1 私たちの律法違反をあがなうため

キリストが死なれたのは、私たちの律法違反をあがなうためでした。

ヘブル人への手紙
9:15 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された違反の贖いとして、キリストが死んでくださった結果、召された者たちが、約束された永遠の財産を受けるためです。

聖書協会共同訳2018

このおかげで、私たちは新しい契約に入ることができるのです。

その新しい契約を、皆さんは受け入れているでしょうか。
その新しい契約とは、心に神の律法が書きつけられるというものです。

ヘブル人への手紙
8:10 わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。

こうして、私たちは律法に従う心をいただくのです。
これこそが、キリストが死なれた理由です。

ローマ人への手紙
4:25 主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。

この「義とされる」という言葉を、皆さんはどのように捉えているでしょうか。
多くのクリスチャンが、次のように教え込まれています。

「私たちは無罪とされたので、もはや神の戒めを守らなくてもよくなった」

しかし、聖書の教えはそうではありません。

その2 私たちが罪を離れ、義に生きるため

キリストは、私たちが罪を離れ、義に生きるために死なれました。

ペテロの手紙 第一
2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義に生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会(別訳より)

このことを受け入れないなら、決して悪魔の支配から逃れることはできません。
キリストが来られたのは、という悪魔のわざを打ち破るためなのです。

ヨハネの手紙 第一

3:4 罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです

3:5 あなたがたが知っているとおり、キリストは罪(律法違反)を取り除くために現れたのであり、この方のうちに罪はありません。

3:6 キリストにとどまる者はだれも、罪(律法違反)を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。

3:7 幼子たち、だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しい方であるように、正しい人です。

3:8 罪(律法違反)を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

このように、心に律法を書きつけられた人は、罪(律法違反)を犯しません。

「義とされる」とは、決して、神の戒めを守らなくてもよくなることではありません。
「義とされる」とは、罪に捕らわれていた私たちが、神の戒めを守れるようになることです。

ローマ人への手紙
6:17 しかし、神に感謝すべきことに、あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から聞き従って
6:18 罪から自由にされ、義の奴隷となったのです。

聖書協会共同訳2018

これが「義とされる」ということです。
この恵みを受け取るには、伝えられた教えの基準に心から聞き従う必要があります。

その基準とは何でしょう。
それは十戒じっかいです。これを聖書は「神の戒め」と呼び、守るように教えているのです。

マタイの福音書
19:17 イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
19:18 彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。
19:19 父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。

これに逆らうことを、聖書は「不法」と呼びます。

この不法からあがない出すために、キリストは死なれたことを覚えてください。

テトスへの手紙
2:14 このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。

その3 私たちがしゅとともに生きるため

キリストが死なれたのは、私たちがしゅとともに生きるためです。

テサロニケ人への手紙 第一
5:10 キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。

事実、私たちには助け主が与えられ、しゅとともに生きるようになります。

ヨハネの福音書
14:15 もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである
14:16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主(パラクレートス)を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
14:17 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。

御霊みたま助け主(パラクレートス)と呼ばれ、私たちが神の戒めを守ることを助けてくれます。

これは新たな別の神を指すのではありません。
御霊みたまなる助け主(パラクレートス)とは、イエス・キリストのことなのです。

ヨハネの手紙 第一
2:1 わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主(パラクレートス)、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。

私たちはこのことを悟らなければなりません。

コリント人への手紙 第二
13:5 あなたがたは、信仰の内にあるかどうか、自分を試し、自分を吟味しなさい。それとも、あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。あなたがたの内にはイエス・キリストがおられるのです。ただし、あなたがたが失格者なら別ですが。

聖書協会共同訳2018

このとおり、私たちのうちにおられる神は、イエス・キリストです。
だからこそ、この方はインマヌエルと呼ばれるのです。

マタイの福音書
1:23 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。

その4 私たちがしゅのために生きるため

キリストが死なれたのは、私たちがしゅのために生きるためです。

コリント人への手紙 第二
5:15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。

このことを、あなたは受け入れているでしょうか。

かつての私は、クリスチャンでありながら、このことを受け入れていませんでした
「すべてを捧げます」と口では言っていても、実際は自分のために生きていました。

多くの方が、同じような状態にあるのではないでしょうか。

それは本物のクリスチャンの姿ではありません
本物なら「聖別」されているはずです。

ヘブル人への手紙
9:13 もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、
9:14 永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。

人でも道具でも、聖別されたものは、もはや一般の用途に使うことはできません。
あなたは「聖別」を受け入れ、生ける神に仕える者となっているでしょうか。

コリント人への手紙 第一
6:19 あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである

これを受け入れた人は、もう、しゅと福音のために命を投げ出しています。

マルコの福音書
8:35 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。

反対に、そうしないしもべはどうなると教えられているでしょうか。

マタイの福音書
25:30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

聖書協会共同訳2018

厳しく聞こえるかもしれませんが、これが聖書の教えなのです。

ヨハネの黙示録
3:15 「私はあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
3:16 熱くも冷たくもなく、生温いので、私はあなたを口から吐き出そう。

聖書協会共同訳2018

「行いは必要ない」そう聞いてきたかもしれません。
しかし、それは聖書の教えではないのです。そのような教えにしがみ付くなら、その人の最後は悲惨なものとなるでしょう。

今、幼子のように聖書の教えに向き合ってください。

ヨハネの福音書
3:36 御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。

「信じるだけで救われる」とは、聖書は教えていません。
私たちは目を覚まし、本当の教えに立ち返る必要があるのです。

おわりに

キリストが何のために死んだのか、おわかりいただけたでしょうか。

それは、私たちの律法違反をあがなうため。
それは、私たちが罪を離れ、義に生きるため。
それは、私たちがしゅとともに生きるため。
それは、私たちがしゅのために生きるため。

これらすべての恵みを受け取った人だけが、救いにあずかるのです。
一つでも拒絶するなら、その人は暗闇で泣いて歯ぎしりすることになるでしょう。

そもそも、考えてみてください。
この中に、一つでも悪いものがあるでしょうか。一つでも損になるものがあるでしょうか。

私たちを愛し、幸いな者とするために、キリストは死んでくださったのです。

ローマ人への手紙
5:6 わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。
5:7 正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。
5:8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。

もう、この方の死を無駄にしてはいけません。
聖書の教えを余さず信じ、受け入れる者となりましょう。

私の言うことを信じなくても構いません。
このブログにも間違いはあるでしょう。

人の教えをすべて捨て去って、聖書を信じてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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