悔い改めは一度きりか
はじめに
「悔い改めは一度きりのものである」と教えるクリスチャンと、
「罪を犯したなら、そのたびに悔い改める必要がある」と教えるクリスチャンがいます。
一体、どちらが正しいのでしょうか。
ご一緒に聖書から確認してみましょう。
本来のクリスチャンの姿
先に、本来クリスチャンとは、どのような者であるかを確認しておきましょう。
罪を犯すことができない。これが本来のクリスチャンの姿です。
ところが、同じ手紙に、こうも書いてあります。
一体、どういうことでしょうか。
悪に染まる私たち
本当に悔い改めて神に立ち返った人は、世から分離されます。
世の人々が当たり前に行っている罪を、進んで犯せなくなるのです。
もしそうなっていないなら、聖霊の導きを得ていません。まずはそのことを吟味してください。
次に、聖霊を受けたクリスチャンであっても、肉体が変化するわけではありません。肉体は相変わらず罪の性質を宿しています。しかもそれは、悪魔の支配する世界に置かれています。
そのため、欲に引きずられ、私たちはときに罪を犯すことがあります。
自己愛、金銭欲、傲慢──、世の人々にとっては当たり前であっても、それは罪です。
これらを放置すると、どうなるでしょう。
次のことを知っておかねばならないと聖書は教えます。
これらはすべて、罪を放置したクリスチャンの姿です。
では一体、どうしたらこれを避けられるのでしょうか。
その方法こそ「悔い改め」なのです。
悔い改め
世の人々は、罪の解決方法を知りません。
しかし、私たちは知っています。
ここで、クリスチャンは大きく二つのグループに分かれます。
一つは、一度悔い改めたことで、今後犯す罪もすべて赦されると考えるグループ。
もう一つは、罪を犯すたびに、その悔い改めが必要だと考えるグループ。
結論から申し上げますと、
前者の考えは広く知られていますが、聖書的ではありません。
後者こそ、聖書の教える健全な考え方です。
熱心になって悔い改める生活
熱心になって悔い改める生活を、苦しい生活だと教える人がいます。
それは真理の道を歩んだことのない人の言葉です。
本当のクリスチャンは、喜んで、感謝のうちに悔い改めを続けています。
あなたは、汚い服を着続けるのと、日々、洗濯された服を着るのと、どちらを好みますか?
主は、私たちの小さな汚れであっても、それを洗い流そうと待っておられます。
これを洗わないなら、私たちは主と何の関係もない者になってしまいます。
聖霊のバプテスマを受けた私たちは、全身がきれいです。
けれど主は、そのあとについた足の汚れさえも、洗ってくださろうというのです。
これを恵みだと思わない人がいるでしょうか。
罪悪感をなくす方法
罪悪感をなくす方法は、二つあります。
一つは、開き直ることです。
もう罪を犯してもよくなったと考え、気にしないことです。
この方法は、罪悪感をなくすことはできても、悪に染まることを避けられないでしょう。
もう一つは、悔い改めることです。
悔い改めた罪は拭い去られ、けっして思い出されないと主は約束してくださるからです。
そもそも、罪悪感とは何でしょう。
それは聖霊の導きであり、良心の健全な働きです。
私たちが抵抗さえしなければ、神様は私たちを救ってくださるのです。
ですから、これに向き合い、悔い改めましょう。
そうすれば、私たちは完全に癒やされるのです。
偽りの教え
はっきり言いましょう。
熱心になって悔い改めることを否定する教えは、偽りの教えです。
もう騙されてはいけません。
彼らの言い分はこうです。
「罪をいちいち謝罪するなら、それは相手との不健全な関係を築くことになる」
本当にそうでしょうか。
謝罪することは、かえって相手との健全な関係を築くことになります。
ですから、私たちは神との健全な関係を築くためにも、些細な罪さえ嫌い、熱心に悔い改める必要があります。
そうしない人はどうなると聖書は教えるでしょう。
念のために言っておきますが、罪を犯したらすぐに救いを失う、というのではありません。
また、罪を犯すことで、神様の愛を失うのでもありません。
主は初めから、罪人を愛し、そのような人を救うために来てくださったからです。
罪意識を捨て、罪悪感を無視し、悔い改めをやめたときに、私たちは救いを失うのです。
おわりに
救いとは何でしょう。
私たちは何から救われるのでしょうか。
救いとは「罪からの救い」です。
ですから、悔い改めをやめたとき、救いを失うことは必然です。
今、思い込みを捨てて、真理に向き合ってみましょう。
罪を悲しみ、これを主に告白し、拭い去っていただくことは、悪いことでしょうか?
絶対にそんなことはありません。それはとても良いことです。
弟子たちは何度、これを喜び、感謝して、悔い改めの祈りを捧げたことでしょう。
それなのに、これを「苦しい生き方」と呼ぶ教師が増えています。
彼らは、キリストがただ一度だけ捧げられたことを取り上げて、悔い改めまでも、一度きりでよいと教えます。真実の中に嘘を混ぜ込むことで、巧妙に教えを曲げているのです。
そのような怠惰な教えを喜んだのは、私たちクリスチャンです。
このことを、聖書は前もって警告していました。
もう、こんなことを続けてはいけません。
今日、神との健全な関係を回復し、本来の姿を取り戻しましょう。
間違った教えをすべて手放して、聖書に立ち返るときが来ています。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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