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なぜ異邦人が救われるのか

はじめに

あなたがクリスチャンなら、キリスト・イエスを通して、どんな国の人でも救いにあずかることを知っていると思います。

ではなぜ、異邦人にも救いが及ぶようになったのでしょうか。
また、どのような人がその救いにあずかるのでしょうか。

実のところ、多くの人がこれを知らなかったり、間違った教えを信じたりしています。

とても重要なことですから、聖書から確認してみましょう。

私たちが救いにあずかる理由

私たちが救いにあずかる理由は、アブラハム契約が異邦人に及ぶからです。

ガラテヤ人への手紙
3:14 それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊みたまを、わたしたちが信仰によって受けるためである。

アブラハムの受けた祝福とは何でしょう。
次のように書いてあります。

創世記
22:17 わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、
22:18 また地のもろもろの国民はあなたの子孫(イエス・キリスト)によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである』」。

じつにこのおかげで、私たちは救いにあずかることができるのです。

そして一般に、この契約は「無条件」だと教えられています。

無条件──、それは本当でしょうか。
それならなぜ、「あなたがわたしの言葉に従ったからである」と書いてあるのでしょうか。

アブラハム契約に条件はないのか

多くの神学者が、なぜ「無条件」と言うのかは分かりませんが、道に迷ったとき、私たちにはいつも聖書があります。

創世記
26:2 その時、主は彼(アブラハムの息子イサク)に現れて言われた、「エジプトへ下ってはならない。わたしがあなたに示す地にとどまりなさい。
26:3 あなたがこの地にとどまるなら、わたしはあなたと共にいて、あなたを祝福し、これらの国をことごとくあなたと、あなたの子孫とに与え、わたしがあなたの父アブラハムに誓った誓いを果そう。
26:4 またわたしはあなたの子孫を増して天の星のようにし、あなたの子孫にこれらの地をみな与えよう。そして地のすべての国民はあなたの子孫(イエス・キリスト)によって祝福をえるであろう
26:5 アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」。

アブラハム契約が与えられた理由は、アブラハムが神の戒めを守ったからだと書いてあります。

もしかしたら、神学者たちは、今も道に迷っているのかも知れません。
いずれにせよ、聖書に従う限り、私たちは正しい道に戻ることができます。

聖書によれば、アブラハムが神の戒めを守ったので、祝福が約束されたのです。

では、彼の守った戒めとは何でしょう。
少なくとも、その後430年たってできたモーセ律法のことでないのは確かです。

ガラテヤ人への手紙
3:17 わたしの言う意味は、こうである。神によってあらかじめ立てられた契約が、四百三十年の後にできた律法によって破棄されて、その約束がむなしくなるようなことはない。

アブラハムが守ったのはモーセ律法ではありません。
彼が守ったのは、初めからあった律法、神の原則である、十戒じっかいです。

マタイの福音書
19:8 イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった。

この律法はモーセの時代に石の板に書かれましたが、初めから守られていました。

カインがアベルを殺したとき、神様がとがめたのは、それが殺人の罪だからです。
ヨセフがポティファルの妻から言い寄られたとき、彼が逃げたのは、それが姦淫かんいんの罪だからです。
また、神様が安息日を聖別したのは、いつのことだったでしょうか。

創世記
2:2 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

このように、十戒じっかいはユダヤ人が現れるよりずっと前からありました。
この戒めを守ったので、アブラハムは契約を受けたのです。

救いに条件はないのか

アブラハムが契約を受けたのは、彼が神の戒めを守ったからでした。
では、その契約にあずかる私たちはどうなのでしょうか。

しゅは次のように教えます。

マタイの福音書
19:16 すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
19:17 イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
19:18 彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。
19:19 父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。

同じです。
命に入りたければ、十戒じっかいを守りなさい。それがしゅの教えです。

反対に、十戒じっかいを守らないならどうなるでしょう。

兄弟に対して怒ること、馬鹿にすること、ゆるさないこと、憎むことは、十戒じっかいのいう殺人に当たると聖書は教えます。

マタイの福音書
5:21 昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:22 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。

マタイの福音書
18:35 あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。

ヨハネの手紙 第一
3:15 あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。

これらを見てなお、救いは「無条件」と言い続ける人を、一体誰が弁護することができるでしょうか。

どうやって神の戒めを守るのか

兄弟を憎むことは殺人です。
情欲の目で人を見ることは姦淫かんいんです。
妬むことさえ、隣人のものを欲することになるのです。

これらを聞いたとき、「ああ、そうだったのですね」といって、明日から変わることのできる人がいるでしょうか。

残念ながら、一人もいないのです。
私たちは、心の罪をコントロールすることができないからです。

ローマ人への手紙
3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである

では一体、何をどうすればいいのでしょうか。
罪との戦いを、私たちはどう戦ったらいいのでしょうか。

聖書は次のように教えます。

イザヤ書
30:1 「わざわいだ、頑なな子ら。──主のことば──彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ。
(途中省略)
30:15 イスラエルの聖なる方、神である主はこう言われた。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたはこれを望まなかった。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

これが秘訣です。
私たちはつい、自分の力に頼ってしまいがちですが、神の霊によらず勝利する戦いなどないのです。

私たちは神に信頼し、落ち着いていればいいのです。
私たちの心を変えてくださるのは、神様です。

ヘブル人への手紙
8:10 わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。

戒めを愛する心

昨今、十戒じっかいを嫌うクリスチャンが大勢います。
十戒じっかいは律法主義者のものであり、ユダヤ人のものであり、自分たちを束縛するくさりだと教えられているからです。

そのような教えに従っていては、決して罪からの解放はありません

神の戒めを愛さずして、どうしてそれを守れるようになるでしょう。

罪からの解放は、戒めを愛することから始まります。
神の戒めこそが、私たちを罪から解放するための教科書だからです。

詩編119編を読んでみてください。これは心の119番通報です。
このような心を、私たちは取り戻す必要があるのです。

詩編
119:1 おのが道を全くして、主のおきてに歩む者はさいわいです。
119:2 主のもろもろのあかしを守り心をつくして主を尋ね求め、
119:3 また悪を行わず、主の道に歩む者はさいわいです。

119:33 主よ、あなたの定めの道をわたしに教えてください。わたしは終りまでこれを守ります。
119:34 わたしに知恵を与えてください。わたしはあなたのおきてを守り、心をつくしてこれに従います。
119:35 わたしをあなたの戒めの道に導いてください。わたしはそれを喜ぶからです。

119:127 それゆえ、わたしは金よりも、純金よりもまさってあなたの戒めを愛します。

119:174 主よ、わたしはあなたの救を慕います。あなたのおきてはわたしの喜びです。
119:175 わたしを生かして、あなたをほめたたえさせ、あなたのおきてを、わが助けとしてください。
119:176 わたしは失われた羊のように迷い出ました。あなたのしもべを捜し出してください。わたしはあなたの戒めを忘れないからです。

おわりに

異邦人の救いはアブラハム契約のゆえであり、それは神の戒めを守る人に与えられると聖書は教えます。

念のために言っておきますが、律法を守ることで救われるのではありません。
私たちはアブラハムと同様、信仰によって救われるのです。

ローマ人への手紙
4:13 なぜなら、世界を相続させるとの約束が、アブラハムとその子孫とに対してなされたのは、律法によるのではなく、信仰の義によるからである

すると「律法に従う心はありませんが、信仰ならあります」というクリスチャンがいます。

しかし、アブラハムがどれほどの信仰を持っていたかを思い出してください。

ヘブル人への手紙
11:17 信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。

そんな彼の信仰に倣う人が、アブラハムの契約を受け継ぐのです。

ローマ人への手紙
4:16 このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである──

アブラハムの中には、神のために捨てられないものなど一つもありませんでした。
信仰によって、どこまでも神に従ったのです。
だからこそ、彼は神の戒めを心から愛し、喜んでそれを守り行ったのです。

ヤコブの手紙
2:21 わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。
2:22 あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、
2:23 こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。
2:24 これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない

神の約束は、このような信仰を持つ人だけに与えられていることを覚えてください。

イザヤ書
56:6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は──
56:7 わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである」。

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