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安息日を回復しよう

はじめに

聖書を読めば誰でもわかるように、神様は安息日を定めておられます。

しかし安息日を守る人は少なく、多くの教会で日曜礼拝が行われています。

安息日はどこへ行ってしまったのでしょうか。

これは私たちの永遠の命に関わる問題ですから、聖書から慎重に調べてみましょう。

安息日はモーセ律法とともに無効になった?

日曜礼拝を行う人たちの主張の一つに、安息日はモーセ律法とともに無効になったという主張があります。

ガラテヤ
3:19 それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。

これはモーセ律法のことです。
一方、十戒じっかいや安息日は、あとから加えられたものではありませんし、仲介者の手によって制定されたものでもありません。

創世記
2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

世界が創られたときから、神ご自身が第七日目を聖別しています。

実際、モーセが石の板を授かるより前しゅはマナを降らせてこう言いました。

出エジプト
16:26 六日の間はそれを集めなければならない。七日目は安息日であるから、その日には無いであろう」。
16:27 ところが民のうちには、七日目に出て集めようとした者があったが、獲られなかった。
16:28 そこで主はモーセに言われた、「あなたがたは、いつまでわたしの戒め(ミツヴァー)と、律法(トーラー)とを守ることを拒むのか。

すでに十戒じっかいも安息日も守られていたのです。

出エジプト
24:12 ときに主はモーセに言われた、「山に登り、わたしの所にきて、そこにいなさい。彼らを教えるために、わたしが律法(トーラー)と戒め(ミツヴァー)とを書きしるした石の板をあなたに授けるであろう」。

世のはじめからあった律法を、神が石の板に書き記したもの、それが十戒じっかいなのです。

  1. 神のほかに神があってはならない。

  2. 偶像を造ってはならない。

  3. 神の名をみだりに唱えてはならない。

  4. 安息日を聖とせよ。

  5. 父と母を敬え。

  6. 殺人をしてはならない。

  7. 姦淫かんいんをしてはならない。

  8. 盗んではならない。

  9. 偽証してはならない。

  10. 隣人のものをむさぼってはならない。

世界が創られたときから、これを破ってよかった時代はなく、またこれからもありません。

この律法について、イエス様は次のように言っておられます。

マタイ
5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

しっかりと目を覚ましてください。

とは、途中から神様が考え出したものではありません。その時々で義を変化させるなら、それは義なる神とは言えません。

十戒じっかいが無効になったという教えは、私たちから真理を奪う、大変危険な教えです。この基本を、まずはしっかりと覚えましょう。

使徒たちの時代に、主日礼拝が行われるようになった?

安息日を守らない人たちの主張に、使徒たちの時代に主日礼拝(日曜礼拝)が行われるようになったというものがあります。

使徒
20:7 週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。

これが根拠とされる聖句です。たったこれだけです。

あんなにも聖書で繰り返されてきた安息日が、たったこれだけの文章で廃止されたと言うのです。

まともな人であれば、違和感を感じませんか?

割礼の廃止を伝えるためには、一体どれほどの文章が使われたでしょう。しかも、どれほどはっきりと示されていることでしょう。

ガラテヤ
5:2 見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。
5:3 割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法(モーセ律法)の全部を行う義務がある。
5:4 律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。
5:5 わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。
5:6 キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。

それなのに、ユダヤ人が重視する安息日の廃止が(仮にあったとして)、これだけの文章で終わりですか?

可能性がゼロとは言いませんが、これは「ある日曜日のこと」という程度の文章でしかありません。

本当に、使徒たちは日曜日に集まることに決めていたのでしょうか。

使徒
そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

毎日です。彼らは、毎日、パンを裂くために集まっていたのです。

日曜礼拝を擁護したい気持ちはわかります。しかし、教会が率先してうそをつくことは、絶対にあってはなりません

十戒じっかいは一点一画も廃れません。
パウロさえもこう言っています。

第一コリント
割礼があってもなくても、それは問題ではない。大事なのは、ただ神の戒めを守ることである

安息日に集まれたはずがない?

安息日は会堂以外は外出禁止だから、弟子たちがしゅを礼拝するために集まれたはずがないと主張する人がいます。

いいえ。

ルカ
6:1 ある安息日にイエスが麦畑の中をとおって行かれたとき、弟子たちが穂をつみ、手でもみながら食べていた。
6:2 すると、あるパリサイ人たちが言った、「あなたがたはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのか」。

外出禁止や、安息日に歩いてよい距離を定めたのは、パリサイ人であって、聖書ではありません。

聖書によれば、イエス様は安息日に麦畑の中を通っておられます

イエス様は、律法学者が付け足した口伝律法をことごとく否定されました。弟子たちが口伝律法に従うはずがありません。

イエス様は安息日に麦畑を通られた

大切なのは聖書に書いてあるかどうか

イエス・キリストを知ったユダヤ人は、隔ての律法が廃されたことを、簡単には納得できませんでした。

それで「割礼」「食物規定」が不要になったことを、聖書は事細かに説明しているのです。

では、「安息日」はどうですか。ユダヤ人が最もこだわるものがあるとすれば、それは安息日です。それが不要になったとか、日曜礼拝に変わったと、どこかに説明されているでしょうか。

いいえ、まったくありません。

聖書にたまたま記されなかったと考えるのは、あまりにも都合がよすぎませんか?

もう、聖書にないことにこだわるのはやめましょう。それはあなた自身を神から遠ざけてしまいます。そんなにかたくなになる必要がどこにあるでしょうか。

十戒じっかいがなくなることはありません。これがなくなるなら、誰が罪に定められるのでしょう十戒じっかいに違反することが罪なのです。

第一ヨハネ
3:4 罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会
罪とは律法に違反することです

時と律法が変えられた

日曜礼拝は、カトリックに由来するものです。もっと言えば、ミトラ教の太陽礼拝に由来するものです。政治の都合上、ミトラ教とキリスト教の礼拝日を同じにする必要があったのです。

そう考えると、気持ちが悪くありませんか?

このことはダニエル書に預言されていました。

ダニエル
7:25 彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時と律法とを変えようと望む。聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にわたされる

預言のとおり、安息日は小さな角(教皇権、バチカン)によって日曜礼拝へと変えられてしまいました。今や、聖徒は小さな角の手に渡されているのです。

このまま小さな角の定めた時と律法に従うなら、その人の額にはけものの刻印が押されてしまうことになります。私たちの額には、その従うものの名が記されるからです。神に従うなら神の印が押され、けものに従うならけものの刻印が押されるのです。

上記のダニエル書の預言は、新約聖書でも繰り返されています。

ルカ
21:24 彼らはつるぎの刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう。

黙示録
11:2 聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。

これらは、第三神殿という空想の産物を指しているのではありません。ダニエル書の預言を繰り返しているのです。すなわち、教会が、終わりの時まで、小さな角の勢力に踏みにじられると預言しているのです。

安息日は私たちを守る

けものの刻印は、やがて全世界の人々に押されることが預言されています。

黙示録
13:16 また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、
13:17 この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。

あなたは最後まで忍耐して、けものの刻印を拒むことができるでしょうか。

黙示録
3:10 忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。

忍耐すれば、しゅがあなたを守ってくださいます。

安息日はその第一歩となります。人々の目を気にして、安息日も守れないのなら、私たちはきっとけものの刻印を受け入れてしまうでしょう。

それとも、安息日は守れなくても、いざとなったら、全世界の人が受ける刻印を、自分だけは拒否できる、そう思うでしょうか。

ダニエル書から学ぶ

ダニエル書は、私たちが小さな角の勢力に勝つために書かれた教科書です。

ネブカデネザルが、金の像を拝まない者は火の燃える炉に投げ込まれるとの命令を出したとき、人々が金の像を拝む中、三人の聖徒だけがそれを拒みました。

ダリヨスが、王のほか何者を拝む者も獅子ししの穴に投げ込まれなければならないとの命令を出したとき、ダニエルはひとり、大っぴらに神を礼拝したのです。

あなたはどちらになるでしょう。世の側に立つでしょうか。それとも、神の側に立つでしょうか。

神の側に立つ人にはしるしがあります。

出エジプト
31:13 「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。

神の側に立つ人

異邦人であっても救われる

救いにあずかる人は、安息日を守る人であると、聖書は教えています。

イザヤ
56:6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は―
56:7 わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである」。

日曜礼拝に従うか、安息日に従うか。それによって、誰に従っているかが明らかになるのです。あなたの額に押されるのは、その従うものの名です。

どちらかを私たちは選ばなければなりません。

残念ながら、捕囚の民は皆、世の習慣を選びました。ただ、ダニエルとその友人たちだけが、聖書の神を第一にしたのです。

安息日に安息を得ない人

安息日は、神様とともに休む日です。
ある人は、あれをやってはいけない、これをやってはいけないと、決まりを守ることに忙しそうですが、そういう日ではないとイエス様は教えられました。

マルコ
2:27 また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。

安息日にたくさんの決まりがあるように見えるのは、パリサイ派が作った言い伝え(口伝律法)のせいです。それは人の作った教えであり、それに従うことには意味がないとイエス様は言われました。

マルコ
7:6 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
7:7 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。
7:8 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。

大切なのは神の教え(トーラー)であって、人の教えではありません。神様は、安息日に休めと言われたのです。

神様を愛するために、神様と過ごす。それが安息日なのです。

安息日を嫌いにさせるサタンのわなにはまらないでください。
安息日は、天国で神様とともに過ごす日々を、この地上でも味わうことのできる、喜びの日なのですから。

高き所

列王記には、気になる記述があります。

第一列王記
15:14 ただし高き所は除かなかった。けれどもアサの心は一生の間、主に対して全く真実であった。

第一列王記
22:43 ヨシャパテは父アサのすべての道に歩み、それを離れることなく、主の目にかなう事をした。ただし高き所は除かなかったので、民はなお高き所で犠牲をささげ、香をたいた。

第二列王記
12:2 ヨアシは一生の間、主の目にかなう事をおこなった。祭司エホヤダが彼を教えたからである。
12:3 しかし高き所は除かなかったので、民はなおその高き所で犠牲をささげ、香をたいた。

第二列王記
14:3 アマジヤは主の目にかなう事をおこなったが、先祖ダビデのようではなかった。彼はすべての事を父ヨアシがおこなったようにおこなった。
14:4 ただし高き所は除かなかったので、民はなおその高き所で犠牲をささげ、香をたいた。

第二列王記
15:3 彼は主の目にかなう事を行い、すべての事を父アマジヤが行ったようにおこなった。
15:4 ただし高き所は除かなかったので、民はなおその高き所で犠牲をささげ、香をたいた。

第二列王記
15:34 彼は主の目にかなう事を行い、すべて父ウジヤの行ったようにおこなった。
15:35 ただし高き所は除かなかったので、民はなおその高き所で犠牲をささげ、香をたいた。彼は主の宮の上の門を建てた。

高き所。これは、土を盛り上げて作った、偶像礼拝のための祭壇のようなものです。イスラエルの民は、異教の風習を取り入れて、神を礼拝していたのです。

神様がこれをどれほど取り除きたかったかは、上記の記述を見ればよくわかるとおりです。

同じではないでしょうか。小さな角の定めた時と律法に従って神を礼拝するなら、高き所で神を礼拝することと何が違うのでしょうか

高き所。これを私たちの中から取り除かなければなりません。

創造主を礼拝しよう

私たちは創造主を礼拝する必要があります。

黙示録
14:6 わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、
14:7 大声で言った、「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」。

「天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」これは、創造の記念日を覚えよと言っているのです。安息日の命令を見てください。

出エジプト
20:8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。
20:9 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。
20:10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。
20:11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。

わかる人にだけわかる黙示によって、安息日の回復が叫ばれているのです。それが叫ばれているのは今です! もう、そのときが来ているのです!

安息日は第七日目、金曜の日没から土曜の日没までのあいだです。

ほかの日が創造の記念日となることはありません。この日が聖別されていることは、すでに創世記の二章に書いてあるとおりです。

ほかの日が記念日となることはありません

おわりに

多くの人々が、神よりも、大衆の意見や習慣を優先して、安息日をけがしています。

しかし、勇気を出さなければなりません。ほかの人が全員、金の像を拝んでも、あなただけはまっすぐに立っていなければならないのです。

ルカ
21:28 これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。」

新改訳1970

今、どうか人の声に従うのではなく、聖書の言葉に従ってください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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