安息日を回復しよう
はじめに
聖書を読めば誰でもわかるように、神様は安息日を定めておられます。
しかし安息日を守る人は少なく、多くの教会で日曜礼拝が行われています。
安息日はどこへ行ってしまったのでしょうか。
これは私たちの永遠の命に関わる問題ですから、聖書から慎重に調べてみましょう。
安息日はモーセ律法とともに無効になった?
日曜礼拝を行う人たちの主張の一つに、安息日はモーセ律法とともに無効になったという主張があります。
これはモーセ律法のことです。
一方、十戒や安息日は、あとから加えられたものではありませんし、仲介者の手によって制定されたものでもありません。
世界が創られたときから、神ご自身が第七日目を聖別しています。
実際、モーセが石の板を授かるより前、主はマナを降らせてこう言いました。
すでに十戒も安息日も守られていたのです。
世のはじめからあった律法を、神が石の板に書き記したもの、それが十戒なのです。
神のほかに神があってはならない。
偶像を造ってはならない。
神の名をみだりに唱えてはならない。
安息日を聖とせよ。
父と母を敬え。
殺人をしてはならない。
姦淫をしてはならない。
盗んではならない。
偽証してはならない。
隣人のものをむさぼってはならない。
世界が創られたときから、これを破ってよかった時代はなく、またこれからもありません。
この律法について、イエス様は次のように言っておられます。
しっかりと目を覚ましてください。
義とは、途中から神様が考え出したものではありません。その時々で義を変化させるなら、それは義なる神とは言えません。
十戒が無効になったという教えは、私たちから真理を奪う、大変危険な教えです。この基本を、まずはしっかりと覚えましょう。
使徒たちの時代に、主日礼拝が行われるようになった?
安息日を守らない人たちの主張に、使徒たちの時代に主日礼拝(日曜礼拝)が行われるようになったというものがあります。
これが根拠とされる聖句です。たったこれだけです。
あんなにも聖書で繰り返されてきた安息日が、たったこれだけの文章で廃止されたと言うのです。
まともな人であれば、違和感を感じませんか?
割礼の廃止を伝えるためには、一体どれほどの文章が使われたでしょう。しかも、どれほどはっきりと示されていることでしょう。
それなのに、ユダヤ人が重視する安息日の廃止が(仮にあったとして)、これだけの文章で終わりですか?
可能性がゼロとは言いませんが、これは「ある日曜日のこと」という程度の文章でしかありません。
本当に、使徒たちは日曜日に集まることに決めていたのでしょうか。
毎日です。彼らは、毎日、パンを裂くために集まっていたのです。
日曜礼拝を擁護したい気持ちはわかります。しかし、教会が率先して嘘をつくことは、絶対にあってはなりません!
十戒は一点一画も廃れません。
パウロさえもこう言っています。
安息日に集まれたはずがない?
安息日は会堂以外は外出禁止だから、弟子たちが主を礼拝するために集まれたはずがないと主張する人がいます。
いいえ。
外出禁止や、安息日に歩いてよい距離を定めたのは、パリサイ人であって、聖書ではありません。
聖書によれば、イエス様は安息日に麦畑の中を通っておられます。
イエス様は、律法学者が付け足した口伝律法をことごとく否定されました。弟子たちが口伝律法に従うはずがありません。
大切なのは聖書に書いてあるかどうか
イエス・キリストを知ったユダヤ人は、隔ての律法が廃されたことを、簡単には納得できませんでした。
それで「割礼」や「食物規定」が不要になったことを、聖書は事細かに説明しているのです。
では、「安息日」はどうですか。ユダヤ人が最もこだわるものがあるとすれば、それは安息日です。それが不要になったとか、日曜礼拝に変わったと、どこかに説明されているでしょうか。
いいえ、まったくありません。
聖書にたまたま記されなかったと考えるのは、あまりにも都合がよすぎませんか?
もう、聖書にないことにこだわるのはやめましょう。それはあなた自身を神から遠ざけてしまいます。そんなに頑になる必要がどこにあるでしょうか。
十戒がなくなることはありません。これがなくなるなら、誰が罪に定められるのでしょう。十戒に違反することが罪なのです。
時と律法が変えられた
日曜礼拝は、カトリックに由来するものです。もっと言えば、ミトラ教の太陽礼拝に由来するものです。政治の都合上、ミトラ教とキリスト教の礼拝日を同じにする必要があったのです。
そう考えると、気持ちが悪くありませんか?
このことはダニエル書に預言されていました。
預言のとおり、安息日は小さな角(教皇権、バチカン)によって日曜礼拝へと変えられてしまいました。今や、聖徒は小さな角の手に渡されているのです。
このまま小さな角の定めた時と律法に従うなら、その人の額には獣の刻印が押されてしまうことになります。私たちの額には、その従うものの名が記されるからです。神に従うなら神の印が押され、獣に従うなら獣の刻印が押されるのです。
上記のダニエル書の預言は、新約聖書でも繰り返されています。
これらは、第三神殿という空想の産物を指しているのではありません。ダニエル書の預言を繰り返しているのです。すなわち、教会が、終わりの時まで、小さな角の勢力に踏みにじられると預言しているのです。
安息日は私たちを守る
獣の刻印は、やがて全世界の人々に押されることが預言されています。
あなたは最後まで忍耐して、獣の刻印を拒むことができるでしょうか。
忍耐すれば、主があなたを守ってくださいます。
安息日はその第一歩となります。人々の目を気にして、安息日も守れないのなら、私たちはきっと獣の刻印を受け入れてしまうでしょう。
それとも、安息日は守れなくても、いざとなったら、全世界の人が受ける刻印を、自分だけは拒否できる、そう思うでしょうか。
ダニエル書から学ぶ
ダニエル書は、私たちが小さな角の勢力に勝つために書かれた教科書です。
ネブカデネザルが、金の像を拝まない者は火の燃える炉に投げ込まれるとの命令を出したとき、人々が金の像を拝む中、三人の聖徒だけがそれを拒みました。
ダリヨスが、王のほか何者を拝む者も獅子の穴に投げ込まれなければならないとの命令を出したとき、ダニエルはひとり、大っぴらに神を礼拝したのです。
あなたはどちらになるでしょう。世の側に立つでしょうか。それとも、神の側に立つでしょうか。
神の側に立つ人にはしるしがあります。
異邦人であっても救われる
救いに与る人は、安息日を守る人であると、聖書は教えています。
日曜礼拝に従うか、安息日に従うか。それによって、誰に従っているかが明らかになるのです。あなたの額に押されるのは、その従うものの名です。
どちらかを私たちは選ばなければなりません。
残念ながら、捕囚の民は皆、世の習慣を選びました。ただ、ダニエルとその友人たちだけが、聖書の神を第一にしたのです。
安息日に安息を得ない人
安息日は、神様とともに休む日です。
ある人は、あれをやってはいけない、これをやってはいけないと、決まりを守ることに忙しそうですが、そういう日ではないとイエス様は教えられました。
安息日にたくさんの決まりがあるように見えるのは、パリサイ派が作った言い伝え(口伝律法)のせいです。それは人の作った教えであり、それに従うことには意味がないとイエス様は言われました。
大切なのは神の教え(トーラー)であって、人の教えではありません。神様は、安息日に休めと言われたのです。
神様を愛するために、神様と過ごす。それが安息日なのです。
安息日を嫌いにさせるサタンの罠にはまらないでください。
安息日は、天国で神様とともに過ごす日々を、この地上でも味わうことのできる、喜びの日なのですから。
高き所
列王記には、気になる記述があります。
高き所。これは、土を盛り上げて作った、偶像礼拝のための祭壇のようなものです。イスラエルの民は、異教の風習を取り入れて、神を礼拝していたのです。
神様がこれをどれほど取り除きたかったかは、上記の記述を見ればよくわかるとおりです。
同じではないでしょうか。小さな角の定めた時と律法に従って神を礼拝するなら、高き所で神を礼拝することと何が違うのでしょうか。
高き所。これを私たちの中から取り除かなければなりません。
創造主を礼拝しよう
私たちは創造主を礼拝する必要があります。
「天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」これは、創造の記念日を覚えよと言っているのです。安息日の命令を見てください。
わかる人にだけわかる黙示によって、安息日の回復が叫ばれているのです。それが叫ばれているのは今です! もう、そのときが来ているのです!
安息日は第七日目、金曜の日没から土曜の日没までのあいだです。
ほかの日が創造の記念日となることはありません。この日が聖別されていることは、すでに創世記の二章に書いてあるとおりです。
おわりに
多くの人々が、神よりも、大衆の意見や習慣を優先して、安息日を汚しています。
しかし、勇気を出さなければなりません。ほかの人が全員、金の像を拝んでも、あなただけはまっすぐに立っていなければならないのです。
今、どうか人の声に従うのではなく、聖書の言葉に従ってください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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