はじめに
次のような聖句を使って、人々を恐怖に陥れている人がいます。
外国の服を着る人や、豚肉を食べる人は、罰せられ、滅びるというのです。
今日、これらの聖句とどう向き合うべきか、きちんと確認しておきましょう。
もし食物や服装で滅びるとしたら
仮に、外国の服を着る人や、豚肉を食べる人が、すべて滅ぼされるとします。
その場合、異邦人クリスチャンは、そのほとんどが服装や食べ物のことで滅ぼされることになるでしょう。
怒りや妬みを注意している場合ではありません。異邦人伝道者は、とにもかくにも、服装や食物のことを訴え、それらを改善していくことに全力を尽くさなければなりません。
パウロはそうしていたでしょうか。聖書はそこに強調点を置いているでしょうか。
律法は影である
律法は影であり、それには本体があるのだと聖書は教えます。
これを踏まえて、食物や服装について見てみましょう。
聖書はすべて真実である
聖書の言葉はすべて本当であり、預言は必ず成就します。
ゆえに、主が来られたとき、外国の服を纏ったすべての人は罰せられます。
しかし、外国の服とは何でしょう。
聖書には、羊毛と亜麻糸の混じった服を着てはいけない、上着の四隅には房がついていなければならないなどの規定があります。外国の服とは、それらの規定から外れた衣服のことです。
すると、羊毛と亜麻糸の混じったセーターを着ることで、人は地獄へ行くのでしょうか。
そうではありません。「これらは来たるべきものの影であって、その本体はキリストにある」と書いてあるとおりです。
これが私たちの着るべき服です。
救いの衣。義の上衣。これらを着ていない人が、外国の服を纏った者と表現されているのです。
また、豚や鼠を食べる者は滅ぼされるという聖書の言葉も本当です。
とはいえ、これも影であり、その本体はキリストにあります。
これこそが、真の食物、私たちの食べなければならないものです。これを食さない人を、忌むべき物を食う者と表現しているのです。
それ自体汚れているものは一つもない
それ自体汚れているものは一つもないのです。
ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのです。
神の民が異邦人から隔離されていたとき、豚は「彼らにとって」汚れていました。
こうしてキリストが来るまでのあいだ、神の民は数々の規定によって隔離され、守られてきたのです。
しかしキリストが来て、その隔離も終わりました。
本当に大切なこと
主は、食べてはいけないパンでさえ、人に与えるようなお方です。
ましてや、隔ての壁はもうないのです。
これ以上、どうして食物のことで兄弟を苦しめる必要があるでしょうか。
もう、食べ物のことで兄弟を苦しめてはいけません。
神の民に必要なのは、次のような愛ある態度です。
「律法のない人には、律法のない人のようになった」これがどういう意味か、よく考えてみてください。
聖書の教える愛を、どうか見失うことのありませんように。
おわりに
それ自体汚れているものは一つもありません。
ただ、汚れていると考える人にだけ、汚れているのです。
神様を喜ばせるために、食物規定を守りたい、服装を守りたい。その心はとても良いものだと思います。健康のために豚やエビを食べない。それも良いことだと思います。
とはいえ、そのせいで本当に大切なことを見失ってしまうなら、何の価値もありません。
もう、服装や飲食のことで心配する必要はありません。
また、心配する信仰の弱い人を軽んじてもいけません。
聖書が何を教えているのか、どうか素直な心で読んでみてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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