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クリスチャンは食物や服装をどうすべきか

はじめに

次のような聖句を使って、人々を恐怖に陥れている人がいます。

ゼパニヤ書
1:8 主の犠牲をささげる日に、「わたしはつかさたちと王の子たち、およびすべて異邦の衣服を着る者を罰する。

イザヤ書
66:17 「みずからを聖別し、みずからを清めて園に行き、その中にあるものに従い、豚の肉、憎むべき物およびねずみを食う者はみな共に絶えうせる」と主は言われる。

外国の服を着る人や、豚肉を食べる人は、罰せられ、滅びるというのです。

今日、これらの聖句とどう向き合うべきか、きちんと確認しておきましょう。

もし食物や服装で滅びるとしたら

仮に、外国の服を着る人や、豚肉を食べる人が、すべて滅ぼされるとします。

その場合、異邦人クリスチャンは、そのほとんどが服装食べ物のことで滅ぼされることになるでしょう。

怒りや妬みを注意している場合ではありません。異邦人伝道者は、とにもかくにも、服装食物のことを訴え、それらを改善していくことに全力を尽くさなければなりません。

パウロはそうしていたでしょうか。聖書はそこに強調点を置いているでしょうか。

コリント人への手紙 第一
8:8 食物は、わたしたちを神に導くものではない。食べなくても損はないし、食べても益にはならない。

ヘブル人への手紙
13:9 さまざまな違った教によって、迷わされてはならない。食物によらず、恵みによって、心を強くするがよい。食物によって歩いた者は、益を得ることがなかった。

マタイの福音書
6:25 それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。

律法は影である

律法は影であり、それには本体があるのだと聖書は教えます。

ヘブル人への手紙
10:1 いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできないのである。

コロサイ人への手紙
2:16 だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。
2:17 これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある

これを踏まえて、食物や服装について見てみましょう。

聖書はすべて真実である

聖書の言葉はすべて本当であり、預言は必ず成就します。
ゆえに、しゅが来られたとき、外国の服まとったすべての人は罰せられます。

しかし、外国の服とは何でしょう。
聖書には、羊毛と亜麻糸の混じった服を着てはいけない、上着の四隅には房がついていなければならないなどの規定があります。外国の服とは、それらの規定から外れた衣服のことです。

すると、羊毛と亜麻糸の混じったセーターを着ることで、人は地獄へ行くのでしょうか。

そうではありません。「これらは来たるべきものの影であって、その本体はキリストにある」と書いてあるとおりです。

ヨハネの黙示録
3:4 しかし、サルデスにはその衣を汚さない人が、数人いる。彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である。
3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう。

これが私たちの着るべき服です。

イザヤ書
61:10 わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。主がわたしに救の衣を着せ、義の上衣をまとわせて、花婿が冠をいただき、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである。

救いの衣義の上衣。これらを着ていない人が、外国の服をまとった者と表現されているのです。

また、ねずみを食べる者は滅ぼされるという聖書の言葉も本当です。

とはいえ、これも影であり、その本体はキリストにあります。

ヨハネの福音書
6:53 イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。
6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である

これこそが、まことの食物、私たちの食べなければならないものです。これを食さない人を、忌むべき物を食う者と表現しているのです。

それ自体けがれているものは一つもない

それ自体けがれているものは一つもないのです。
ただ、それがけがれていると考える人にだけ、けがれているのです。

ローマ人への手紙
14:14 わたしは、主イエスにあって知りかつ確信している。それ自体、汚れているものは一つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのである。

神の民が異邦人から隔離されていたとき、豚は「彼らにとって」けがれていました。

レビ記
11:7 豚、これは、ひずめが分かれており、ひずめが全く切れているけれども、反芻することをしないから、あなたがたには汚れたものである。

こうしてキリストが来るまでのあいだ、神の民は数々の規定によって隔離され、守られてきたのです。

しかしキリストが来て、その隔離も終わりました。

エペソ人への手紙
2:14 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、
2:15 様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました──

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

本当に大切なこと

ルカの福音書
6:3 そこでイエスが答えて言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えていたとき、ダビデのしたことについて、読んだことがないのか。
6:4 すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほかだれも食べてはならぬ供えのパンを取って食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。

しゅは、食べてはいけないパンでさえ、人に与えるようなお方です。
ましてや、隔ての壁はもうないのです。
これ以上、どうして食物のことで兄弟を苦しめる必要があるでしょうか。

ローマ人への手紙
14:15 もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、あなたは、もはや愛によって歩いているのではない。あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも、死なれたのである。

もう、食べ物のことで兄弟を苦しめてはいけません。
神の民に必要なのは、次のような愛ある態度です。

コリント人への手紙 第一
9:20 ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。
9:21 律法のない人には──わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが──律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。

「律法のない人には、律法のない人のようになった」これがどういう意味か、よく考えてみてください。
聖書の教える愛を、どうか見失うことのありませんように。

おわりに

それ自体けがれているものは一つもありません。
ただ、けがれていると考える人にだけ、けがれているのです。

神様を喜ばせるために、食物規定を守りたい、服装を守りたい。その心はとても良いものだと思います。健康のために豚やエビを食べない。それも良いことだと思います。

とはいえ、そのせいで本当に大切なことを見失ってしまうなら、何の価値もありません。

ローマ人への手紙
14:16 それだから、あなたがたにとって良い事が、そしりの種にならぬようにしなさい。
14:17 神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。

もう、服装飲食のことで心配する必要はありません。
また、心配する信仰の弱い人を軽んじてもいけません。

ローマ人への手紙
14:1 信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。
14:2 ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。
14:3 食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。

聖書が何を教えているのか、どうか素直な心で読んでみてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

テモテへの手紙 第一
4:1 しかし、御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう。
4:2 それは、良心に焼き印をおされている偽り者の偽善のしわざである。
4:3 これらの偽り者どもは、結婚を禁じたり、食物を断つことを命じたりする。しかし食物は、信仰があり真理を認める者が、感謝して受けるようにと、神の造られたものである。
4:4 神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。
4:5 それらは、神の言と祈とによって、きよめられるからである。
4:6 これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたは、信仰の言葉とあなたの従ってきた良い教の言葉とに養われて、キリスト・イエスのよい奉仕者になるであろう。

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