荒らす憎むべきものとは
はじめに
イエス・キリストは次のように言われました。
荒らす憎むべきものが聖なる場所に立つと、史上最大の患難が起こる、そうイエス様は教えているのです。
この荒らす憎むべきものとは、一体何でしょうか。
ご一緒に聖書から調べてみましょう。
ダニエルの預言
まずは「預言者ダニエルによって言われた」という、その箇所を見てみましょう。
多くの預言がそうであるように、この預言にも、表の預言と、裏の預言があります。
表の預言は、紀元前170年ごろ、アンティオコス・エピファネスが神殿にゼウス像を安置することによって成就しました。
とはいえ、イエス様が「荒らす憎むべき者が聖なる場所に立つのを見たならば」と言われたのは、紀元後のことですから、別のことについて語られたのは明らかです。
また、アンティオコス・エピファネスによってゼウス像が立てられたように、
荒らす憎むべきものとは「立てられるもの」であって、「立てる者」ではないことに注意してください。
何者かによって、荒らす憎むべきものが、聖なる場所に立てられるのです。
聖なる場所
荒らす憎むべきものが立てられる「聖なる場所」について確認してみましょう。
多くの神学者が、これを未来に建つ第三神殿だと教えますが、そうではありません。
今後、どのような建物が建とうとも、そこに神様はお住みになりません。
そんな建物を、イエス様が「聖なる場所」と表現することはないのです。
聖なる場所、聖所、神の宮、それは教会のことにほかなりません。
いつ立てられるのか
荒らす憎むべきものは、いつ教会に立てられるのでしょうか。
まず注意してください。
ここに書かれた「彼」を、未来の独裁者だと考える人がいますが、これはイエス・キリストにほかなりません。
「彼」は多くの人と「新しい契約」を結びましたが、三年半の宣教ののち、自らが供え物となって、犠牲制度を終わらせたのです。
荒らす憎むべきものが聖なる場所に立つのは、そのあとです。
つまり、メシアが断たれて間もなく、荒廃が始まるということです。
この荒廃については、次のように書かれています。
この小さい角は、ダニエル書の七章で明かされているとおり、分裂したローマ帝国から出現する小国、ローマ教皇権(バチカン)です。
これこそが、「立てる者」です。
歴史が証明するとおり、この勢力は教会を踏みつけ、高ぶり、真理を地に投げ打ちました。
この者によって、荒らす憎むべきものは、もう立てられていると考えられます。
また注意してください。
「常供の燔祭を取り除き」とありますが、これを「犠牲と供え物とを廃する」というキリストの功績と混同してはいけません。
常供の燔祭と、贖罪の捧げ物。私たち日本人からすると、どちらも似たようなものに感じられますが、これらはまったく別物です。
常供の燔祭
小さい角が取り除く「常供の燔祭」について、詳しく見てみましょう。
常供の燔祭(ハ・タミード)、これは「常に(タミード)」という言葉に定冠詞がついたもので、祭司によって定期的に捧げられた供え物のことです。
預言的には、神に仕える祭司の働き、すなわち真の礼拝を指すものと思われます。
これが常供の燔祭です。
すなわち、自分のために生きることをやめ、主のために生きる。それが聖書の教える、真の礼拝なのです。
それなのに、現代、多くのクリスチャンが、主のために生きず、自分のために生きています。
これこそが、常供の燔祭が取り除かれた証拠ではないでしょうか。
教会に何が立てられたのか
一体、どうしてこうなってしまったのでしょうか。
ローマ教皇は、教会に何を打ち立てたのでしょうか。
教皇が打ち立てたのは、聖なる契約に対抗する、偽の教えにほかなりません。
具体的には、安息日と十戒の変更です。
これこそが、聖なる場所に立てられた「荒らす憎むべきもの」だと考えられます。
別の箇所では、「荒らすことをなす罪」と書かれています。
本来、聖所に置かれるべきものは、契約の箱であり、その中身は十戒です。
ところが教会には、もう正しい十戒は置かれていません。
十戒を破ることは不法であり、破らせる者は不法の者です。
預言のとおり、ローマ教皇は神の宮である教会に座し、自らを神の代理人と名乗り、「時と律法を変えようと望む」とあるように、安息日と十戒を変えました。
この偽の教えは、宗教改革をもってしても取り除かれることはありませんでした。
そのせいで、教会は現在も安息日を汚しており、十戒を捨てるようになってしまったのです。
おわりに
荒らす憎むべきものは、もう聖なる所に立っており、常供の燔祭は教会から取り除かれています。
そのせいで、現代の教会は、初代教会とぜんぜん違う姿をしているのです。
これに気づいた人々は、偽の教えから脱出を始めています。
ある人は、真の礼拝を取り戻し、自分を生きた聖なる供え物として神に捧げるべく、安息日を守れるような仕事に転職したり、休むことを公言したりしています。
またある人は、兄弟を助けるべく、日曜礼拝をやめ、十戒の正しい教えを宣べ伝え始めています。
あなたはどうでしょうか。
あなたにとって、主に従うことは、自分の生活よりも優先度の低いことでしょうか。
これは自主的なものでなければ意味がありません。主のしてくださったことを思い、この王に全力でお仕えしたいという人でなければ、王国の一員とはなれないのです。
思い出してください、あなたを買い取るために、どんなに大きな支払いがなされたのかを。
主は、私たちがけっして滅びないように、最大限の愛を示されたのです。それは何のためでしょうか。
この大きな愛に応えましょう。
荒らす憎むべきものを捨て、常供の燔祭を取り戻すのです。
主が私たちに何をしてくださり、何を求めておられるのか、今一度、聖書から確認する必要があります。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
(気に入った記事はSNSでシェアしていただければ幸いです)
こちらの記事も参考にどうぞ。