わかりませんという勇気
はじめに
多くのクリスチャンが、預言の解き明かしをしようと頑張っています。
私たちもこれを見習うべきです。
そうしないなら、人の意見を鵜呑みにするだけになってしまうからです。
しかし、ときにはわからないこともあるかと思います。
そんなときこそ、気をつけてください。
というのも、わからない自分を認められず、プライドによって、むりやり答えを作り出している人があまりにも多いからです。
使徒や預言者はどうだったか
聖書には、啓示や幻を受けた人がたくさん出てきますが、彼らはそれが何を意味するのか、いつもわかっていたでしょうか。
あるときペテロは、四隅をつるされた敷布に様々な生き物が入って地上に降りて来るのを見ましたが、これが何であるかを理解したでしょうか。
わかっていません。
ペテロが理解したのは、その出来事が実際に起こったときです。すなわち、異邦人であるコルネリオから招かれたときに、神様はどんな人間をも清くないとか、汚れていると言ってはならないことを示されたのだと気づいたのです。
預言者ダニエルはどうだったでしょう。
わかっていません。
彼らが理解するのは、御使いから解き明かしを受けたり、それが実際に起こったりしたときなのです。
それなのに、取るに足りない私たちが、預言や啓示に対して、すべての答えを持ち合わせているのはどういうことでしょう。
本当はわからないはずなのに、むりやり答えを造り出しているからではないでしょうか。
黙示録の解釈
黙示録ほど、様々な解釈を生み出してきた書物はないでしょう。
まだ起こってもいない出来事を、人々はなぜ、自信を持って説明できるのでしょうか。
本当はわからないはずなのに、それでは納得できず、無理な解釈を施していることはないでしょうか。
たとえば、獣の刻印です。
これが何であるか、数百もの解釈が存在します。
世の中にそれっぽいものが出てくるたびに、「これが獣の刻印だ」と騒がれてきました。
信憑性のある解釈の一つとして、「日曜休業令」というものがあります。世界的に「日曜日を休め」という法令が発布されて、安息日が守れなくなるというのです。
そうかもしれません。
しかし、そうでなかったら?
もしかしたら、獣の刻印とは、獣の教えに従うこと自体を指すのかもしれません。実際、人は何に従うかによって、その所属が決まるのだと聖書は教えます。
その場合、「日曜休業令」が発布されるかのように思わせるほうが、サタンにとって都合がいいとは思いませんか?
とはいえ、「日曜休業令」が本当に獣の刻印であった場合、これに備えていなかった人は、簡単に刻印を受けることになってしまうでしょう。
ですから、あらゆる可能性に備えておくほうが安全です。
「わからない」という態度は、ときに安全な方法であることを覚えてください。
いつまでもわからないままではいけない
私たちが「わからない」状態でいるのは、時が来るまでです。
そのときになっても、わからないままではいけません。
時のしるしを見分けなかったせいで、人々は救い主を殺してしまったのです。
同じ失敗をしてはいけません。
わからないものは「わからない」としつつも、
聖書をよく調べ、それがわかるように備えることは、とても大切なことなのです。
読者よ、悟れ
「読者よ、悟れ」これは聖書の中で、とても珍しい表現です。マタイとマルコ、両方の福音書に書かれているので、よほど重要なことなのでしょう。
かつて、これとそっくりな事件が起こりました。
紀元前167年、アンティオコス四世・エピファネスが、エルサレムの神殿にゼウス像を立てたのです。
ダニエルは第一義的に、このことを預言した可能性もあります。
しかしイエス様は、そのあとに来られ、警告されたのですから、別のことを指しているはずです。
その後、またこれとそっくりな事件が起こりました。
紀元70年、ローマ軍がエルサレムを取り囲み、神殿を踏みにじったのです。
主はこのことを言っておられたのでしょうか。
いいえ、こうも言っておられます。
最後の患難のときについて述べられたのは明らかです。
ではなぜ、その前にそっくりな出来事が起こるのでしょう。
二つの理由が考えられます。
一つは、神様がリハーサルとして、私たちに備えをさせるためになさった可能性です。
実際、聖書には、そのような出来事がたくさん出てきます。
もう一つは、サタンのフェイクです。
サタンは、預言の成就であるかのような偽の奇跡を起こして、私たちを惑わすことさえするのです。
そのどちらなのかは、わかりません。
「わかりません」というのは、情けなく感じるかもしれませんが、誠実な態度でもあります。
無理な解釈をせず、「わかりません」と言える勇気を持ちましょう。
おわりに
「獣の刻印はマイクロチップのことだ」と言う人は、マイクロチップを避けることに集中し、「いや、あの注射のことだ」と言う人は、注射を受けなかったことで安心しています。
それはとても危険なことです。
それこそ、サタンの思惑どおりではないでしょうか。
「わかりません」というほうが、まだ安全です。
しかし何より安全なのは、神様のもとへ身を避けることです。
すなわち、聖書をよく読み、その御言葉を行う者になること。これよりも安全なことはありません。そのような人は、やがて実を結び、収穫されるからです。
反対に、「信じるだけ」という人がいますが、このような人は倒れてしまいます。
そのときになると、大勢の「信じるだけクリスチャン」が、ひどい倒れ方をするでしょう。
聖書の御言葉は、すべて実現することになるからです。
謙遜になって、私たちの安全がどこにあるのか、聖書をよく確かめてみましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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