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本物の教会

はじめに

世の中には、正統と呼ばれるもの、異端と呼ばれるもの、様々な教会があります。

聖書の教える本物の教会とは何でしょうか。

これはとても大切なことですから、ご一緒に確認してみましょう。

罪から離れ、義を行っているか

罪から離れ、義を行っているかどうかが、本物とにせ物を区別する方法の一つだと聖書は教えます。

ヨハネの手紙 第一
3:9 すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。
3:10 神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も、同様である。

とはいえ、罪を犯さない人などいません。
これについて、もう少し詳しく見てみましょう。

罪とは何か

聖書は、罪を次のように定義しています。

ヨハネの手紙 第一
3:4 罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

罪とは、律法に違反することです。

これはモーセ律法のことではありません。
一点一画も廃れないとしゅが言われた律法、十戒じっかいのことです。

罪を犯さないとはどういうことか

十戒じっかいは、私たちが本来持つべき健全な良心を記したものです。

ところが、人はサタンに支配され、十戒じっかいを守ることができなくなってしまいました。

そこでしゅは、私たちが罪を離れ、義に生きるために、十字架にかかってくださったのです。

ペテロの手紙 第一
2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義に生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

しゅがすべての罪を負ってくださったので、私たちは安心して十戒じっかいに従うことができるのです。

天国に行くためでも、地獄に行かないためでもなく、愛によって自由の律法として守ることができるようになったのです。

この恵みを受け取っている人が、罪を犯さない者であり、本物の教会だと聖書は言っているのです。

このことを正しく受け取っていないなら、本物の教会ではありません
十戒じっかいをおろそかにする教会は、けっして本物ではないのです。

良い実を結んでいるか

マタイの福音書
7:18 良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。
7:19 良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。
7:20 このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである

にせ物の教会は、けっして良い実を結ぶことはできません。

兄弟を憎むことは殺人の罪であり、情欲の目で人を見るなら姦淫かんいんの罪です。

これを些細ささいなことと思わず、悔い改めて、義を求める人だけが、良い実を結ぶのです。

良い実とは、キリストと同じ品性のことです。
そして十戒じっかいこそが、あなたをキリストの品性へと導く教科書であることを覚えてください。

ローマ人への手紙
10:4 律法(十戒じっかい)が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

しゅの言葉にとどまっているか

しゅの言葉にとどまっている者だけが、本物の教会であると聖書は教えます。

ヨハネの福音書
8:31 イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。

しゅの言葉に、あなたはとどまっているでしょうか。

マタイの福音書
5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

ここには当然、第四の戒めである「安息日」が含まれています。
これについて、あなたはどう認識しているでしょうか。

安息日

イエス様は、人のために安息日があるのだと教えています。

マルコの福音書
2:27 また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。

もちろん、弟子たちはこの言葉にとどまっていました。
だからこそ、しゅの埋葬よりも、安息日を優先したのです。

ルカの福音書
23:56 そして帰って、香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ

マタイの福音書
28:1 さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。

弟子たちが休んだのは日曜日ではありません。その前日が安息日だと、聖書は教えているのです。

現代の教会が十戒じっかいから離れてしまったのは、間違った神学によるものです。けっして聖書の教えではありません。

このことに気づいた少数の人々が、背教した教会から出てきています。
私もその一人です。

あなたはどうでしょうか。
何もかも捨ててしゅに従う信仰が、まだ残っているでしょうか。

おわりに

しゅの目に、あなたは本物の教会と見られているでしょうか。

マタイの福音書
7:13 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い
7:14 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。

十戒じっかいは廃された」「私たちはイスラエルではない」「信じるだけで救われる」そのような教えが、主流派となっています。

それらの教えが本当に聖書の教えなのかどうか、あなた自身が確かめてみる必要があります。

いかなる人の言葉も信頼できるものではありません。このブログも同様です。
信頼できるのは、聖書だけです。

もう、広い道を歩き続けてはいけません。
たとえその道は細くとも、聖書の正しい教えに立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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