はじめに
多くのクリスチャンが、「律法を全うする」と聞くと、モーセの書に書かれたことを文字どおりに行うことだと思ってしまいます。
そのせいで、ある人は律法を嫌い、ある人は律法に縛られて生きています。
けれど、神様が求めておられるのはそういうことではありません。
今日、神様が何を求めておられるのか、しっかりと聖書から読み取りましょう。
律法は今も私たちを支配するのか
まずは、律法が今も私たちを支配するかどうかを調べてみましょう。
このとおり、律法はもう、私たちを支配しません。
私たちは律法に対して死んでおり、解放されており、自由な身となっているとはっきり書かれています。
すると、殺したり姦淫したりしてもよくなったということでしょうか。
そんなことはありません。ここを間違うと、すべてが台無しになります(黙示録21:8)。
「古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えるようになった」これが答えです。
文字に縛られず、霊によって歩くことで、私たちは律法の要求を満たすようになるのです。
霊によって仕える
キリストが来るまでのあいだ、神の民は律法の文字によって統治されていました。律法それ自体が国家の法律だったのです。
ゆえに、土地の扱い方、奴隷の扱い方、生け贄の捧げ方、死刑のやり方など、すべて文字どおりに行う義務がありました。
しかし、キリストの到来によって、文字による統治は終わったのです。
こうして、律法が私たちを支配する時代は終わりました。
ゆえに、私たちは刑罰を恐れることなく、安心して神の御心を行うことができるようになったのです。
そもそも、律法は初めから、文字に仕えることではなく、愛を実践することを目的としていました。
この本来の目的を、キリストは回復されたのです。
その一例を見てみましょう。
愛を実践するキリスト
イエス様は、安息日であろうと歩き回り、弟子たちに食べさせ、人を癒やしました。そのたびに、パリサイ派の人々から安息日違反だと言って咎められたのです。
けれど、安息日を制定されたのはイエスご自身です。安息日をどのように過ごすべきかは、人ではなく、主がお決めになることです。
それで安息日の主は言いました。「私が好むのは憐れみであって、生け贄ではない」と。
皆さんは、これがどういう意味かわかるでしょうか。
私が好むのは憐れみであって、生け贄ではない
これはホセア書からの引用です。
「いつくしみ」と訳すと、上の者が下の者に向ける慈悲のように感じてしまいますが、原文にはそのような意味はありません。
これは真実の愛を表す言葉です。
すなわち、神を知り、真に愛することを、神様は喜ばれるというのです。
文字どおりの生け贄でなく、愛の捧げ物を、主は求めておられるのです。
このようなことを、主は安息日に行っていたのです。
私たちも、文字そのものではなく、神様が本当は何をしてほしかったのかを読み取らなければなりません。
そうして、神の力によって、律法の本来の要求を守っていくのです。
それが、文字によらず、霊によって仕えるということです。
安息日に人を助けたり、空腹を満たしてあげたり、治療してあげたりすることは、決して罪とはなりません。むしろ、それこそが、律法の要求を満たす本当の過ごし方なのです。「どんな仕事もしてはならない」という文字に支配されるなら、決してイエス様のような歩みはできないことを覚えてください。
それからもう一つ。
文字によらないというのと、安息日を無視するのとは、まったく別の態度であることを覚えてください。
安息日を無視するなら、文字によらないばかりか、霊によっても仕えていません。
安息日は、神の民であることの「しるし」です(エゼキエル20:20)。私たちが神だけに従い、やがて神の安息に入るという約束を信じていることの証しなのです。
ですから、安息日に良いことをして、御心のとおりに過ごしましょう。
イエス様が安息日について教えなかったというのは、現代の牧師が考えた真っ赤な嘘です。
「安息日は人のためにあり、その日に良いことをするのが正しい」とイエス様は言われました。
この言葉に従って、今日から、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕える者となりましょう。
おわりに
神様が私たちに何を求めておられるか、なんとなく見えてきたでしょうか。
「文字は人を殺し、霊は人を生かす」
神様は、律法を文字どおりに行うことを喜ばれるのではありません。
それが何を目的としていたのかを悟り、キリストが歩まれたように歩むことを求めておられるのです。
すると、
「キリストは割礼を受けていたのだから、私も割礼を受けるのだ」という人もいるでしょう。
「キリストは豚を食べなかったのだから、あなたも豚を食べてはいけない」という人もいるでしょう。
本当に、聖書はそう言っていますか?
聖書が何を伝えているのか、幼子のように読み直してみませんか。
このブログを信じる必要はありません。
一人ひとりが、聖書から確認してください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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