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人はどうやって救われるのか
はじめに
人はどうやって救われるのでしょうか。
これは聖書の一大テーマです。
しかし、なんということでしょう。
この一大テーマについて、各教会の教えはバラバラです。
真理をつかみ取るには、自分の目で聖書を確かめるしかありません。
今、本当の救いについて、ご自身の目で確認してみましょう。
罪を取り除く神の子羊
ヨハネの福音書
1:29 その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
1:30 『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。
イエス・キリストは罪を取り除くためにこの世に来られました。
この「罪を取り除く」ということが何であるか、私たちは正確に理解する必要があります。
罪とは何でしょう。
ヨハネの手紙 第一
3:4 罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反すること(アノミア)です。
罪とは、「律法に違反すること」だと書かれています。
これは「アノミア」というギリシャ語を正確に訳したものであり、「不法」とも訳されます。
マタイの福音書
7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法(アノミア)を働く者どもよ、行ってしまえ』。
クリスチャンが全員天国に入るのではなく、不法(アノミア)を行う者、すなわち律法に背く人は、「行ってしまえ」と言われてしまうのです。
このことを隠す教会も多いでしょう。
けれど今、教派の教えを脇に置いて、聖書の教えに耳を傾けてください。
律法に背く人は、天国に入れません。律法に背くことが罪であり、罪を悔い改めていないなら、救いは受け取れないからです。
キリストは何のために来られたのか
キリストは何のために来られたのか、今、しっかりと確認しましょう。
ヨハネの手紙 第一
3:4 罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです。
3:5 あなたがたが知っているとおり、キリストは罪(律法違反)を取り除くために現れたのであり、この方のうちに罪はありません。
3:6 キリストにとどまる者はだれも、罪(律法違反)を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。
キリストは、私たちの罪(すなわち律法違反)を取り除くために来られたのです。
「世の罪を取り除く神の子羊」とは、このことです。
「律法を守る必要はない」という教えは、聖書の教えではありません。
よく見てください。
キリストは、「律法を守らなくてよいようにしてくれた」のではなく、
「律法を守れるようにしてくれた」のです。
これこそが、本当の救いです。私たちは、罪(すなわち律法違反)から救われるのです。
マタイの福音書
1:21 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。
この恵みを信じますか?
信じて従う人だけが、この救いを受け取れます。
罪人という言葉
主は私たちの罪を取り除くために来てくださいました。
ここではっきりさせておきましょう。
人は義人になれるのでしょうか。
これについて、多くの教会が混乱しています。
その理由は、「罪人」という言葉の整理ができていないからです。
聖書において、「罪人」という言葉には二種類の使い方があります。
一つは、「罪の性質を持つ者」すなわち「人間」を指す使い方です。
この使い方においては、キリストに従うパウロでさえ、自分を罪人と呼んでいます。
テモテへの手紙 第一
1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。
しかし、もう一つの使い方があります。
それは、「罪を犯す人」を「罪人」と呼ぶ使い方です。
こちらのほうが、聖書では一般的です。
この使い方において、パウロはもう自分を罪人とは見ていません。
罪人から義人へ
ローマ人への手紙
5:8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
このとおり、キリストを受け入れた私たちは、もう罪人ではないのです。
この場合、「罪人」の対義語は「義人」です。
ルカの福音書
5:32 わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。
私たちは生まれながらに罪を犯す者でした。いつも欲に引きずられ、自然に罪を犯す者でした。
この状態を、聖書は「罪の奴隷」と呼びます。
ヨハネの福音書
8:34 イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。
しかし「世の罪を取り除く神の子羊」が来て、私たちの律法違反を取り除き、義を行う者へと変えてくださいました。
この状態を、聖書は「義の奴隷」と呼びます。
ローマ人への手紙
6:17 神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、
6:18 罪から解放されて、義の奴隷となりました。
律法に心から服従することで、私たちは罪から解放されて、義を行う者になれるのです。
「律法を守れているか」ではありません。
「律法を守る者になったか」が大切なのです。
律法に服従し、違反を悔い改める限り、私たちは安全です。
キリストが私たちの過ちを負い、律法が私たちを罪から守ってくれるからです。
どの律法か
私たちはどの律法を守ればよいのでしょうか。
まさにその質問をした人がいます。
マタイの福音書
19:16 すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
19:17 イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
19:18 彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。
19:19 父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。
主は「全部だ」とは言われませんでした。
ただ「十戒を守りなさい」と言われたのです。
なぜなら、十戒を守り行うことこそ、神と隣人への愛を実践することだからです。
ヨハネの手紙 第一
3:23 神の御子イエス・キリストの名を信じ、この方が私たちに命じられたように、互いに愛し合うこと、これが神の戒め(十戒)です。
ヨハネの手紙 第一
5:3 神の戒め(十戒)を守ること、これが神を愛することだからです。その戒めは難しいものではありません。
十戒を一つでも破り、またそうするように教えるなら、それは不法を行う者です。天国へ入ろうとするとき、「行ってしまえ」と言われてしまうでしょう。
反対に、これを行い、またそう教える人は、天国で大いなる者と呼ばれます。
マタイの福音書
5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法(十戒)の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
あなたは今、どちらの状態にあるでしょうか。
そしてこれからは、どちらの状態でいたいでしょうか。
私たちが信じるべきもの
私たちが信じるべきものは何でしょう。
それは「世の罪を取り除く神の子羊」です。
ローマ人への手紙
5:18 このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。
5:19 すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。
ヨハネの手紙 第一
3:7 子たちよ。だれにも惑わされてはならない。彼が義人であると同様に、義を行う者は義人である。
もう、誰にも惑わされないでください。
私たちは紛れもなく、義を行う者になれるのです。
これはなんという恵みでしょう。
すると必ずこう言う人が現れます。
「人の行いが関係するなら、それは恵みとは言わない!」
これはとても悲しい発言です。
しかし、義を行うことを恵みだと信じ、感謝して受け取る人には、必ずこの恵みは与えられます。聖書にそう書いてあるからです。
ペテロの手紙 第一
2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義に生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
キリストが死なれたのは、
私たちが罪(すなわち律法違反)を離れ、義に生きるためです。
私たちが「不法を働く者どもよ、行ってしまえ」と言われないために、主はご自分の命を投げ出されたのです。
もう、この方の死を無駄にしてはいけません。
もう罪を犯してはいけない
恵みを受け取った私たちは、どう生きるべきでしょうか。
癒やされた人に向かって、主はこう言われました。
「もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから(ヨハネ5:14)」
この警告に耳を傾けるクリスチャンの、なんと少ないことでしょう。
多くの教会が「救いを失うことなどない」と教えているからです。
しかし、それは間違っています。
ペテロの手紙 第二
2:20 彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。
2:21 義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。
これは聖書の一貫した教えです。
ヘブル人への手紙
10:26 もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪(律法違反)を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。
10:27 ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。
今、聖書を信じるか、教派の教えを信じるか、選ばなくてはなりません。
言うまでもありませんが、聖書の教えを信じる人だけが、天国へ行くことになるのです。
あなたが身を低くして、聖書を選ばれますように、心からお祈りしています。
おわりに
この記事が、少しでも皆さんの真理の回復に役立てばと願います。
おさらいしておきましょう。
私たちは何を信じて救われるのでしょうか。
答えは「世の罪を取り除く神の子羊」です。
では、何から救われるのでしょうか。
答えは「罪(すなわち律法違反)から」です。
このことを信じ、従うことによって、私たちは救われるのです。
ヨハネの福音書
3:36 御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。
信じて従う人は、イエス・キリストの力によって、聖なる戒めを守る者へと変えられます。
人にはできなくとも、神には何でもおできになるのです。
今、聖書の教える本当の救いをつかみ取りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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