旧約時代の救い
はじめに
聖書には次のようにあります。
また、こうもあります。
イエス・キリストによらない救いは、この世に存在しません。
すると、旧約時代の人はどうなるのでしょうか。
これはとても大切なことですから、ご一緒に聖書を確認してみましょう。
神は唯一
神は唯一、これは聖書の大切な真理です。
その唯一の神が、人となって来られたのです。
それは、神なるイエスが、人なるイエスを産んだともいえます(ヘブル5:5)。
人となって来られても、神の遍在(どこにでも同時に存在できる性質)がなくなることはありません。
それでイエス様は、天におられる遍在を「父」と呼びました。
人となったからには、神を神として崇める必要があるからです。
聖霊も同様です。
私たちのうちにおられる聖霊がイエス・キリストであることを悟らないなら、偽クリスチャンとして見捨てられてしまいます。
神がたくさんいるのではありません。神は唯一です。
まずは、旧約時代の神様は、イエス・キリストであることを覚えてください。
アブラハムの救い
アブラハムは、どのようにして、イエス・キリストから義と認められたのでしょうか。
私たちと同じく、イエス・キリストを信じたことで、義と認められたのです。
これは、アブラハムが「新しい契約」によって救いの道に入ったことを意味します。
旧約時代の救いは「律法の行いによる救い」だと考えがちですが、そうではないのです。
今も昔も、律法によって義とされる者は一人もないのです。
「イエス・キリストを信じる者が救われる」
これが、私たち人類に与えられた唯一の救いであることを覚えてください。
「古い契約」と「新しい契約」
「古い契約は、旧約時代の契約であり、新しい契約は、新約時代の契約である」
このように考えてしまいがちですが、それは間違いです。
「古い契約」とは、私たち全員が、神と最初に交わす契約のことです。
そして「新しい契約」とは、「古い契約」では救われないと悟った私たちが、次に神と交わす契約のことです。
そうです、私たちは「古い契約」すなわち「律法の行いによる義」からスタートする必要があるのです。
兄弟を憎むなら人殺しであり、情欲の目で見るなら姦淫である。
これがキリストの律法です。
互いへのアガペーをもって、十戒を全うせよというのです。
この律法は、神の指によって書かれた永遠の原則であり、モーセ律法とは区別されます。
まずはこの基準に心から服従し、守ることが大切です(ローマ6:17)。
そうして自分には守る力がないと徹底的に悟ったとき、ようやく私たちはキリストのもとにたどり着くのです。
この手順を踏んでおらず、養育係の世話になったことのないクリスチャンが大勢います。
重荷を負っていない人は、「新しい契約」に招かれていません。
あの取税人のように、心から律法に服従し、自分にはそれを守る力がないことを嘆き悲しむ人だけが、義とされて家に帰るのです(ルカ18:10)。
あなたはこの手順を踏んで、キリストにたどり着いているでしょうか。
アブラハムの信仰
信仰とは、神様を信頼し、どこまでも忠実に従うことです。
「人にはできなくとも、神様には何でもおできになる」このことを信じていますか?
信じているなら、その信仰で、キリストの律法を全うできるはずです。
これこそが、アブラハムの信仰であり、業です。
アブラハムは、けっして兄弟を憎むことをせず、心においても十戒を守る者でした。
モーセより前は、誰もキリストの律法を守っていなかった、そんな勘違いを、私たちは払拭する必要があります。
これが聖書の伝える真実です。
アブラハムはキリストの律法を守る者でした。
自分の力で守ったのではありません。
信仰により、神の力によって、律法を守ったのです。
この信仰に倣う人だけが、救いの約束に与ると聖書は教えています。
このことを、しっかりと心に刻んでください。
おわりに
旧約時代も、新約時代も、救いの方法は変わりません。
イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちは救われます。
その信仰が生きているかどうかは、私たちが罪を離れ、義に生きているかどうかで確かめられます。なぜなら、これは救い主の力によって、必ずなされることだからです。
そのためにも、律法という養育係によって、キリストのもとに連れて行ってもらう必要があります。律法を守らないでは、心の底から救い主の必要を感じることはできないからです。
「律法の要求を満たしたいのに、私にはその力がありません。
神様、助けてください。あなたにはその力があると信じます」
このような人に、「新しい契約」が与えられるのです。
その「新しい契約」とは、心に律法が書き付けられ、思いが律法と一致するようになることです(ヘブル8:10)。そうして、もはや文字によらず、霊の導きによって、神に仕えるようになるのです。
それなのに──
「律法に目を向けさせる教えは、偽の教えだ!」
「苦しいクリスチャン生活になるだけだ!」
そのように叫ぶ人たちがいます😢
それは、本当の救いを体験していないからです。
本物のクリスチャンは、喜んで律法に従っています。心に律法が書き付けられ、本心が御心と一致しているので、守らずにいられないのです。
こうして世から分離され、地上にいながらも、天の住人となるのです。
これこそが、本当の十字架の力です!
信じる者は、間違いなく、罪から救い出されます。
これを信じず、受け取っていないことは、本当に悲しいことです😢
受け取りましょう。
新しく生まれた人と、いまだ悪魔に属する人の区別は、このことによって明らかです。
正しい教えに従わなくては、正しい門にたどり着くことはありません。
間違った教えを手放して、聖書に立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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