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あの取税人と私たちの違い
はじめに
イエス様のたとえ話には、胸を打つ話がたくさんあります。
中でもパリサイ人と取税人の話は、多くの人に、神の赦しと寛容さ、そしてへりくだりの心を覚えさせてくれます。
ルカの福音書
18:9 自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。
18:11 パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
18:13 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」
私も、この話にいたく感動していました。
「罪人であることを認めた自分は、この取税人と同じだ。だから義とされるのだ」そう思っていました。
ところが、それはとんでもない間違いだったのです。
本当の取税人の姿
多くのクリスチャンが、この譬えを、未信者の救いに当てはめています。
しかし、本当にそうでしょうか。
この取税人は、今まで神様を知らなかったのでしょうか。
生まれて初めて神殿に来たのでしょうか。
いいえ。
彼はユダヤ人です。神様を信じ、律法を守る民です。
パリサイ人と、取税人、この両方とも、未信者ではありません。
そして注意してください。
信者であるにもかかわらず、神殿に来た時点では、二人とも義とは認められていなかったのです。
私たちはどうでしょうか。
取税人はどうして胸を打ちたたいたのか
取税人は遠く離れて胸を打ちたたいています。
どうしてでしょうか。
それは、神の律法がどうしても守れないからです。
守りたいのに、守れない。その嘆きが、彼を神殿に向かわせ、神様の前にひざまずかせたのです。
ここに、私たちとの大きな違いがあります。
私たちは、これほどまでに完全になりたいと願ったことがあるでしょうか。
「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい(マタイ5:48)」
この命令を、私たちは無視していなかったでしょうか。
胸を打ちながら「神様、どうしてもできないのです」と叫ぶほどに、この命令に取り組んでいたでしょうか。
あの取税人が義とされたのは、この命令に取り組んでいたからです。
そうして自分の中に律法の要求を満たす力が何もないのを知って、泣きながら神様に頼ったのです。
「神様の力に頼れば、必ず律法を守れる」そう信じたのです。
この取税人と、私たちは、本当に同じ姿をしているでしょうか。
パリサイ人の姿
一方パリサイ人は、自分は義とされているのだと信じていました。
これこそ、私たちの姿ではないでしょうか。
「自分は義とされている。世の人たちとは違う」そう考えている私たちのことではないでしょうか。
このような人は、もはや神様を必要としていません。
罪と戦っておらず、心に兄弟を憎む殺人の罪があるのに、見過ごしているのです。
ヨハネの手紙 第一
3:15 あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。
それなのに、救いの確信があり、義とされたと思い込んでいます。
このパリサイ人は、なんと危険な状態にあることでしょう。
キリストは私たちを義人にできる
信じましょう。
キリストは私たちを義人にできます。
信仰によって、私たちは律法を確立できるのです。
ローマ人への手紙
3:31 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。
このことを、心から信じていいのです。
キリストは私たちを罪から救ってくれると書いてあるからです。
マタイの福音書
1:21 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。
ヨハネの手紙 第一
3:8 罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。
ペテロの手紙 第一
2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義に生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
この癒やしを、あなたは信じますか?
信仰がなければ癒やされない
癒やしを受けるには、信仰が必要です。
マタイの福音書
9:22 イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。
反対に、信仰がなければ癒やされません。
マルコの福音書
6:5 そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。
6:6 そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた──
それなのに──
「私たちはけっして律法を守れません。ただ、赦してもらうしかないのです」
そう教える人たちがいます。
これに巻き込まれるなら、けっして癒やされることはありません。
もう、そんな不信仰の暗闇からは脱出しましょう。
聖書の言葉に耳を傾けるなら、あなたは完全に癒やされ、人々を真理に導くことができるのです。
重荷を負う必要性
マタイの福音書
11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
重荷を負った人だけが、主に助けを求めることができます。
信じた人だけが、罪からの癒やしを経験できます。
重荷を負って、罪からの癒やしを信じた人。
それがあの取税人です。
「私は律法を守りたいです。もう罪を犯したくありません。
しかし、その力が全くないのです。
だから主よ、どうか憐れんでください」
このような人が、義と認められて、新しい契約に入るのです。
聖霊が与えられ、心に律法が書き付けられ、罪を犯すことよりも、律法を守ることのほうが簡単になるのです。
このような者に、なりたいとは思いませんか?
なれます! 信じて、心から服従するなら。
聖書がそう教えているからです。
ローマ人への手紙
6:17 神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、
6:18 罪から解放されて、義の奴隷となりました。
おわりに
あなたは、あの取税人のようだったでしょうか。
それとも、パリサイ人のようだったでしょうか。
いずれにせよ、神様を知っているはずの二人は、このときまで義とはされていなかったのです。
その理由は、真に神様にたどり着いていなかったからです。
ガラテヤ人への手紙
3:24 このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。
よく見てください。
「信仰によって義とされるため」には、律法という養育係が必要なのです。
これを無視して、キリストとの真の出会いはありません。
心から律法に服従し、自分には罪の性質以外、何もないことを知った人だけが、神様に頼る道を歩き始めるのです。
信者が全員、天国へ入るのではありません。
律法を守らなくてよいと言い続けたクリスチャンは、再臨のとき、驚きの言葉を耳にすることになるでしょう。
マタイの福音書
7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
こうならないためにも、人の教えではなく、聖書の教えに耳を傾ける必要があります。
間違った神学を手放して、聖書に立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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