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神の民とは
はじめに
聖書には、神の民とか、聖なる国民という言葉が出て来ます。
これは誰のことを指しているのでしょうか。
一体誰が、神によって聖なる民とみなされるのでしょうか。
ご一緒に、聖書から確認してみましょう。
聖書の教える聖なる民
聖なる民となるには、条件があります。
聖書は、神の契約を守る人が、聖なる民なのだと教えています。
出エジプト記
19:5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
19:6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる──
契約とは、具体的に何でしょう。
それは十戒であると書かれています。
申命記
4:13 主はその契約を述べて、それを行うように、あなたがたに命じられた。それはすなわち十誡であって、主はそれを二枚の石の板に書きしるされた。
ですから、十戒を守る人が、聖なる民なのです。
申命記
28:9 もし、あなたの神、主の戒めを守り、その道を歩むならば、主は誓われたようにあなたを立てて、その聖なる民とされるであろう。
エレミヤの預言
神は十戒を与え、彼らを神の民としました。
その後、彼らはどうなったでしょう。
エレミヤ書
7:23 ただわたしはこの戒めを彼らに与えて言った、『わたしの声に聞きしたがいなさい。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。わたしがあなたがたに命じるすべての道を歩んで幸を得なさい』と。
7:24 しかし彼らは聞き従わず、耳を傾けず、自分の悪い心の計りごとと強情にしたがって歩み、悪くなるばかりで、よくはならなかった。
人々は聞き従わず、だんだんと悪に傾いていきました。
それでも主は人類を見捨てず、預言者たちを遣わしました。
しかし──
エレミヤ書
7:25 あなたがたの先祖がエジプトの地を出た日から今日まで、わたしはわたしのしもべである預言者たちを日々彼らにつかわした。
7:26 しかし彼らはわたしに聞かず、耳を傾けないで強情になり、先祖たちにもまさって悪を行った。
このことは、イエス様によって、わかりやすく例えられています。
マタイの福音書
21:33 もう一つの譬を聞きなさい。ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。
21:34 収穫の季節がきたので、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを農夫のところへ送った。
21:35 すると、農夫たちは、その僕たちをつかまえて、ひとりを袋だたきにし、ひとりを殺し、もうひとりを石で打ち殺した。
21:36 また別に、前よりも多くの僕たちを送ったが、彼らをも同じようにあしらった。
21:37 しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。
主は最後まで人類を見捨てなかったのです。
その証拠に、預言者エレミヤに次のような預言が与えられました。
エレミヤ書
31:33 しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。
エレミヤの預言の成就
神の子キリストは地上に来られ、人々の罪を負って死なれました。
それは、私たちのためでした。
ヨハネの福音書
16:7 しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。
16:8 それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。
この約束どおり、キリストは去って行かれ、助け主なる聖霊をお与えになりました。
そうして、エレミヤの預言は成就したのです。
ヘブル人への手紙
8:10 わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。
新約とは、私たちの心に十戒が書かれ、私たちが神の民となることです。
十戒を拒絶する人には、この契約は与えられません。
キリストの律法
十戒を守る人が、神の民です。
その十戒は、殺人や姦淫を罪だと教えています。
では、どこまでが殺人、どこまでが姦淫なのでしょうか。
ヨハネの手紙 第一
3:15 あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。
マタイの福音書
5:28 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
この基準こそが、キリストの律法です。
ローマ人への手紙
13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。
自分のために金や時間を使う人はたくさんいますが、それと同じ量の金や時間を、人のために使う人はどれほどいるでしょうか。
これらの基準は、心を新たにされなければ、決して守れません。
十戒を守る人になるには、日々、キリストによって新しくされる以外にはないのです。
おわりに
聖書によれば、心においても十戒を守る人、それが神の民です。
この基準はとても高いものですが、キリストによって新約を受け、心に律法が書き付けられるなら、私たちは神の民、聖なる国民となれるのです。
その認識を持って、聖書を読みましょう。
ペテロの手紙 第一
2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。
2:10 あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。
繰り返しますが、心においても十戒を守る人が、神の民です。
この認識がなければ、私たちは十戒を無視する者となってしまいます。実際、間違った教えのために、十戒を守っていないクリスチャンがなんと多いことでしょう。
今、聖書の正しい教えに立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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