
「完全な者となりなさい」の意味
はじめに
聖書には、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」とあります。
「完全とした」でも「完全としてあげよう」でもなく、「完全な者となりなさい」です。
そんなことを私たちに求められても、人が神のように完全になれるはずがない! そう思いますよね。目を背けたくなりますよね。
けれど大切なのは、できるかどうかではなく、命じられているかどうかです。
「完全な者となりなさい」そう命じられていますか?
はい。疑う余地はありません。
ですから今、一緒にそのことを考えてみましょう。
完全な者とは何か
まず、完全な者とは何かを、確認してみましょう。
マタイの福音書
5:43 『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:44 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
5:45 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
5:46 あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。
5:47 兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。
5:48 それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
完全な者となりなさい。それは、完全な愛が語られる中で命じられました。
完全な愛とは、自分の気に入る者だけを愛するのではなく、敵でさえも愛することです。その人が何をしたかにかかわらず、後にも先にも愛することであると教えられています。
そのような完全な愛を持つことを指して、主は完全な者となりなさいと教えておられるのです。
完全な者になるとは
注意してください。
「完全な者となったら天国に入れてあげよう」などとは、主は言っておられません。
これを間違うと、私たちは喜びを失うばかりか、律法主義に陥ってしまいます。
完全な者となりなさい。これを簡単にいえば、成長しなさいということです。
大人へと成長する我が子に向かって、誰も「まだ成長していないのか!」とは言わないでしょう。むしろ「成長したね」と言います。
「完全な者となりなさい」も、これと同じです。
私たちが完全な愛を目指しているときに、主は「成長したね、完全な者となっているね」と言ってくださるのです。

私たちは主の命令を守っているか
大切なのは、私たちが主の命令を守っているかどうかです。
私たちが完全な者となりつつあるなら、それが「完全な者となりなさい」という命令を守っていることになります。
弟子たちの認識もこれと同じです。
ピリピ人への手紙
3:12 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
私たちはすでに「完全な者」となっているのではありません。
けれど、私たちが「完全な者」を目指しているときに、主は私たちを「完全な者」と見なしてくださるのです。
私たちは完全な者となれるのか
完全な者を目指すのは良いとして、本当に完全な者になれるのでしょうか。
ローマ人への手紙
5:3 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、
5:4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。
5:5 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。
しっかり立って、覚えてください。
私たちは完全な者になれるのです。
聖霊によって、神の完全なる愛が、私たちの心に注がれているからです。
これを疑いながら走ることは、不信仰です。
そして覚えてください。
この走りは、患難と忍耐の中にあるのです。
ヤコブの手紙
1:3 あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。
1:4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。
おわりに
完全な者となりなさい。
それは、敵を愛し、迫害する者のために祈るような、完全な愛を持ちなさいと言うことです。
この命令を守るとは、私たちがそれを追い求めていることを指します。
けっして、完全な者になったら天国に入れてあげようというのではありません。
エレミヤ書
13:23 エチオピヤびとはその皮膚を変えることができようか。ひょうはその斑点を変えることができようか。もしそれができるならば、悪に慣れたあなたがたも、善を行うことができる。
私たちは、自分を白くも黒くも変えることはできません。
しかし、助けを求めることはできるのです。
ヨハネの手紙 第一
3:22 そして、願い求めるものは、なんでもいただけるのである。それは、わたしたちが神の戒めを守り、みこころにかなうことを、行っているからである。
まずは、信仰が試されるときに、忍耐を完全に働かせましょう。
自分にはその力がなくても、求めることができます。
そのようにする人は、神に完全な者と見なされ、やがて本当に完全な者となれるのです。
偽りの神学から自由になって、聖書の希望に目を向けましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
(気に入った記事はSNSでシェアしていただければ幸いです)
こちらの記事も参考にどうぞ。