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二千三百の夕と朝の預言

はじめに

ダニエル書にある「二千三百の夕と朝」の預言は、これまでさまざまな解釈をされてきました。
本当のところ、この預言は何を伝えているのでしょうか。

先に申し上げますが、この記事をみにする必要はありません。
これはあくまでも、私が聖霊に求め、聖書から受け取った結果です。
それを踏まえて、ご一緒に確認してみましょう。

二千三百の夕と朝の預言

まずはその預言を見てみましょう。

ダニエル書
8:1 われダニエルは先に幻を見たが、後またベルシャザル王の治世の第三年に、一つの幻がわたしに示された。
8:2 その幻を見たのは、エラム州の首都スサにいた時であって、ウライ川のほとりにおいてであった。
8:3 わたしが目をあげて見ると、川の岸に一匹の雄羊が立っていた。これに二つの角があって、その角は共に長かったが、一つの角は他の角よりも長かった。その長いのは後に伸びたのである。
8:4 わたしが見ていると、その雄羊は、西、北、南にむかって突撃したが、これに当ることのできる獣は一匹もなく、またその手から救い出すことのできるものもなかった。これはその心のままにふるまい、みずから高ぶっていた。
8:5 わたしがこれを考え、見ていると、一匹の雄やぎが、全地のおもてを飛びわたって西からきたが、その足は土を踏まなかった。このやぎには、目の間に著しい一つの角があった。
8:6 この者は、さきにわたしが川の岸に立っているのを見た、あの二つの角のある雄羊にむかってきて、激しく怒ってこれに走り寄った。
8:7 わたしが見ていると、それが雄羊に近寄るや、これにむかって怒りを発し、雄羊を撃って、その二つの角を砕いた。雄羊には、これに当る力がなかったので、やぎは雄羊を地に打ち倒して踏みつけた。また、その雄羊を、やぎの力から救いうる者がなかった。
8:8 こうして、その雄やぎは、はなはだしく高ぶったが、その盛んになった時、あの大きな角が折れて、その代りに四つの著しい角が生じ、天の四方に向かった。
8:9 その角の一つから、一つの小さい角が出て、南に向かい、東に向かい、麗しい地に向かって、はなはだしく大きくなり、
8:10 天の衆群に及ぶまでに大きくなり、星の衆群のうちの数個を地に投げ下して、これを踏みつけ、
8:11 またみずから高ぶって、その衆群の主に敵し、その常供の燔祭を取り除き、かつその聖所を倒した。
8:12 そしてその衆群は、罪によって、常供の燔祭と共に、これにわたされた。その角はまた真理を地に投げうち、ほしいままにふるまって、みずから栄えた。
8:13 それから、わたしはひとりの聖者の語っているのを聞いた。またひとりの聖者があって、その語っている聖者にむかって言った、「常供の燔祭と、荒すことをなす罪と、聖所とその衆群がわたされて、足の下に踏みつけられることについて、幻にあらわれたことは、いつまでだろうか」と。
8:14 彼は言った、「二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する」。

これがその預言です。

この預言にはおもてうらがあります。

おもての預言では、雄羊はメディア・ペルシャ、雄山羊やぎはギリシャを表しています。

ダニエル書
8:20 あなたが見た、あの二つの角のある雄羊は、メデアとペルシャの王です。
8:21 また、かの雄やぎはギリシヤの王です、その目の間の大きな角は、その第一の王です。

このおもての預言は、アンティオコス・エピファネスがエルサレム神殿にゼウス像を建てた際、2300日後に神殿が奪還されたことで成就したといわれています。

とはいえ、どうして先の幻のように、メディア・ペルシャを、ギリシャをとして表さなかったのでしょうか。

それは、ここにうらの預言が隠されているからです。

ダニエル書
8:26 先に示された朝夕の幻は真実です。しかし、あなたはその幻を秘密にしておかなければならない。これは多くの日の後にかかわる事だから」。

山羊やぎ、これらが真の教会サタンの会衆を表すことはわかると思います。
実際、で表される初代教会は、エルサレムから始まって、西、北、南へと宣教の範囲を広げていきました。二つの角は、ユダヤ人信者と異邦人信者だと考えていいでしょう。

そこに現れたのが、山羊やぎで表されるローマカトリックです。そこから生える小さい角(バチカン)は、ヨーロッパから始まって、南半球に、アジアに、そしてパレスチナに、多くの教会を建てました。
また聖書のみに従う人々を大量虐殺し、真理を地に投げ打ちました。

これらの暴虐から、神の宮、すなわち教会が清められ、正しい常態に復するのに必要な期間として、「二千三百の夕と朝」が預言されているのです。

その期間は、以下の三つに区分されます。

  • 大患難

  • 御怒みいか

  • 千年王国

この三つの期間には、それぞれ数字がキーワードとして割り当てられています。

一体、どんな数字が割り当てられているのでしょうか。
聖書から確認してみましょう。

大患難

この期間は、常に「1260」という数字によって表されます。

ヨハネの黙示録
12:6 女は荒野へ逃げて行った。そこには、彼女が千二百六十日のあいだ養われるように、神の用意された場所があった。

ほかに、「三年半」「四十二か月」「一時ひととき二時ふたときと半時」という言葉も、同じ期間を表します。

ヨハネの黙示録
11:2 聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。

ダニエル書
7:25 彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時と律法とを変えようと望む。聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にわたされる。

これが実際の1260日なのか、1260年なのか、それともただのキーワードなのかはさておき、聖徒が悩まされる期間を指していることは確かです。

御怒みいか

大患難が終わると、しゅの日が来て、御怒みいかが臨みます。

御怒みいか滅びは、いつも「40」という数字で表されてきました。

創世記(ノアの洪水)
7:4 七日の後、わたしは四十日四十夜、地に雨を降らせて、わたしの造ったすべての生き物を、地のおもてからぬぐい去ります」。

民数記
32:13 主はこのようにイスラエルにむかって怒りを発し、彼らを四十年のあいだ荒野にさまよわされたので、主の前に悪を行ったその世代の人々は、ついにみな滅びた。

この期間は、大患難を通過した聖徒たちがキリストとともに過ごす期間であることも予表されています。

使徒の働き
1:3 イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。

千年王国

御怒みいかりが終わると、サタンのいない千年の期間が始まります。

ヨハネの黙示録
20:2 彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、
20:3 そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終るまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた。

これが実際の千年なのかどうかはわかりませんが、この期間に、復活した人々が、キリストとともに支配します。

ヨハネの黙示録
20:6 この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。

この期間のあいだに、世界はすばらしい回復を見せることでしょう。

キーワードの合計

さて、それぞれの期間に割り当てられたキーワードを確認してみましょう。

  • 大患難 → 1260

  • 御怒みいかり → 40

  • 千年王国 → 1000

これらをすべて合計すると、「2300」となります。

ここでダニエル書の預言を思い出してください。
聖所とその民が渡されて踏みつけられるのはいつまでですか。それは二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する。

これが答えだと私は理解しました。
「二千三百の夕と朝」は、千年王国の終わりまでを示した、神の完全回復を約束する預言だったのです。

夕と朝

さて、「二千三百の夕と朝」の預言が、千年王国の終わりまでを示す完全な清めについての預言であることを証明するには、二つ以上の証言が必要になります。

そこで、「夕と朝」という言葉にも注目してみましょう。
なぜこの預言だけが、「二千三百日」ではなく、「二千三百の夕と朝」と書かれているのでしょうか。
そこには、ちゃんと意味があります。

聖書の中で、「夕と朝」が強調される箇所はどこでしょうか。
それは、創造のときです。

創世記
1:5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。

創世記
1:8 神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。

創世記
1:13 夕となり、また朝となった。第三日である。

創世記
1:19 夕となり、また朝となった。第四日である。

創世記
1:23 夕となり、また朝となった。第五日である。

創世記
1:31 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。

ここに、「夕と朝」の伝えたいことがあるのです。
かつて「六つの夕と朝」で世界が創造されたように、「二千三百の夕と朝」で、神様は世界を再創造されるのです。

創造されたときの世界を、神様は「はなはだ良かった」とされました。
この状態が回復されるのはいつでしょうか。
千年王国が終わって、サタンが完全に除去されたときです。

すなわち、「二千三百の夕と朝」という言葉には、大患難、御怒みいかり、千年王国を通して、「はなはだ良かった」状態が回復されるという、希望の約束が込められていたのです。

おわりに

二千三百の夕と朝の預言は、私たちの完全回復を約束する預言である
これが私の受け取った解釈です。

あなたはどうでしょうか。

一人一人が聖書をよく読み、真理を回復する必要があります。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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