私たちの帰る家
はじめに
聖書は、罪人である私たちのことを、家を飛び出していった放蕩息子にたとえています(ルカ15:11)。
そんな私たちのことを、神様はどう見ておられるのでしょうか。
また、私たちの帰る家はどこにあるのでしょうか。
ご一緒に確かめてみましょう。
子となった私たち
キリストによって新しく生まれた私たちは、お父さんの子となりました。
それなのに、次のような聖句を取り上げて、「もうお父さんの教えを守る必要はなくなった」と教える人たちがいます。
ここから、もう盗んでよい、偽証してよい、神の名をみだりに唱えてよい、安息日を聖別しなくてよい、そう受け取るのでしょうか。
違いますね。
この会議で話し合われたことは、モーセ律法についてであって、神の原則についてではありません(使徒15:1)。
次の聖句も、多くの人に誤解されています。
「もうお父さんの教えを守る必要はなくなった」そう書いてあるでしょうか?
違いますね。
新しい霊によって仕えていると書いてあります。
すなわち、「律法にそう書いてあるから」という文字による仕え方ではなく、新しい霊から来る従順によって仕えているのです。
これこそが、新生であり、癒やしであり、悔い改めた人に与えられる罪からの救いです。
この恵みを与えようと、お父さんは窓の外を見つめ、毎日のように私たちの帰りを待っているのです。放蕩息子である私たちを思い、「帰っておいで、帰っておいで」と待っているのです。
私たちが帰って来るなら、お父さんはどれほど喜ぶことでしょう。
その様子を、イエス様は次のように表現しています。
聖なる山
お父さんの待つ家、私たちの帰る場所のことを、聖書は「聖なる山」と呼びます。
聖なる山は、あるときはエルサレムのあるシオン山、あるときはホレブにあるシナイ山、またあるときはイエス様が変貌を遂げた山として表されてきました。
いずれの山からも、神の声が聞こえてきました。
聖なる山は、神のおられる場所を表しているからです。
この山に、お父さんは私たちを集めようとしておられるのです。
では、どのような人が集められるのでしょうか。大切なのはそこです。
それは、主に連なる人。
それは、主に仕える人。
それは、主を愛する人。
それは、主の僕となった人。
それは、すべて安息日を守って、これを汚さず、主の契約を堅く守る異邦人です。
こうなっていないことこそ、未だ教会が放蕩している証拠なのです。
山へ逃げよ
「山へ逃げよ」そうイエス様は命じておられます。
山へ逃げよ。それは、お父さんの所へ急いで戻れ、神の教えに立ち返れ、ということです。
「荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば」
そのような出来事が、人類の歴史で二度起こりました。
一度目は、アンティオコス・エピファネスが神殿にゼウス像を安置したとき。
(これはイエス様が語られるより前)
二度目は、ローマ軍がエルサレムを包囲したとき。
(こちらはイエス様が語られたあと)
しかし注意してください。
「その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起る」とあるように、その二つの出来事は、本体ではありません。
もう一つ注意してください。
「あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ」とあることです。
大患難のときでも安息日を守るような人たちに呼びかけているのです。
さて、この出来事は、もう起こっているかもしれません。
というのも、荒らす憎むべき者は、もう聖なる場所に立っているからです。
この者は、神の宮に君臨し、時と律法を変えてしまいました。
そのために、人類史上、かつてなく、今後もないような大背教が起こり、神の民がことごとく神の戒めを守らなくなっているのです。
これが残りの子らの特徴です。
この特徴を持った人が、一体、どれほど残っているでしょうか。
これに気づいた人たちは、もう山へ逃げ始めています。
すなわち、新しい霊によって主に仕え、すべて安息日を守ってこれを汚さず、神の契約である十戒を堅く守り始めているのです。
あなたはどうしますか。
「聖なる山へ帰っておいで」と、お父さんは呼びかけています。
あなたは……どうしますか……
おわりに
「山へ逃げなさい。バビロンから出ておいで」
私たちが帰って来るのを、お父さんは涙ながらに待っておられます。
私は、たった一人、バビロンから出て来ました。
あなたも、たった一人、出て来ることになるかもしれません。
それでも、どこかに兄弟が散らされており、やがて集められます。
主がすぐに来て、聖なる山に私たちを集めてくださるのです。
帰りましょう。私たちの家へ。
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