「信仰による義」と「義認」の違い
はじめに
「あなたを猫と見なします」
「あなたを猫にします」
この二つの文章は、まったく違うことを述べていますね。
もしこれを同じ意味だと考えるなら、書き手の意図をまったく汲み取れていないことになります。
「義認」と「信仰による義」についても、これと同じことが言えます。
この二つを区別していないなら、意図を汲み取れないどころか、義認を受けることさえできません。
実際、多くのクリスチャンが、義認を受けていない可能性があります。
これはとても大切なことですから、ご一緒に確認してみましょう。
義認
義認に関して、パウロは次のように書いています。
「認められる」という箇所には、「見なす(ロギゾマイ)」というギリシャ語が使われています。
すなわち、ここには仮定が含まれており、「義人でない人を、義と思うことにする」というニュアンスがあります。
義認とは、不法を赦され、罪を見なかったことにしてもらえることです。このことによって、神の律法を守ってこなかった私たちでも、キリストにつながり、信仰のスタート地点に立つことができるのです。
誰が義認を受けるか
義認は誰が受けられるとありますか? これが大切なのです。
「不信心な者を義とするかたを信じる人」と書かれています。
ここに「見なす(ロギゾマイ)」という言葉は使われていません。「義とするかた」です。
この箇所を、新改訳聖書で見てみましょう。
あれ? と思いませんか。
「認める」という言葉が増えています。
「義とする方」が、「義と認める方」に変わっています。
原文はどうでしょう。
原文には「見なす(ロギゾマイ)」はありません。正しいのは、口語訳聖書のほうです。
ではなぜ、新改訳聖書は、「認める」という言葉を付け足したのでしょうか。
一般的なキリスト教神学の認識
一般的に、義認はどう認識されているのでしょう。
「義とする(ディカイオー)」という言葉自体に、「宣告する」の意味合いがあるというのが彼らの主張です。それで新改訳聖書は、「認める」という言葉を足しているのです。
しかしどうでしょう。
聖書は、「見なす(ロギゾマイ)」がある箇所と、ない箇所を、きちんと分けています。意識して、そう書かれているのです。
そして注意してください。
一般的には、「人は義人にはなれず、罪人のまま神の前に立つ」と信じられているのです。
罪人のまま神の前に立つ?
これは聖書の教えでしょうか。
ペテロはそうではないと答えるでしょう。
ヨハネは騙されるなと言うでしょう。
パウロさえも、そんなことは書いていないというでしょう。
義人でないなら悪魔の子
私たちは、罪人のまま神の前に立つのではありません。
義人として神の前に立つのです。
仮の義人ではありません。
先ほどの聖句にあったように、しみも傷もない者、義を行う者、律法を確立した者として、神の前に立てるのです。
これはとても大切な認識です!
なぜなら、これによって神の子と悪魔の子が区別されるからです。
もしも、義人とならず、「罪人のまま神の前に立とう」と考えているなら、再臨のとき、あなたは悪魔の子に分類されてしまうでしょう。
絶対にそうなってはいけません。
人は義人になれるのか
人は義人になれるのでしょうか。
絶対になれません、自分の力では。
ところが、十字架にはその力があるのです!
このことを信じますか? 私たちは癒やされたのです。罪を離れ、義に生きることができるのです。
これを信じることは、本当に大切なことです。
義認を受ける条件
原文に忠実な聖句を、もう一度よく見てください。
誰を信じる人が、義認を受けると書かれているでしょうか。
「義とする方」です。「義と認める方」ではありません。
キリストは私たちを義人にできる、そう信じる人が、義認を受けると書いてあるのです。
義と義認の区別がついていない人は、この条件に当てはまりません。
「人は罪人のまま神の前に立つ」と信じている人は、義認を受けていない可能性があります。十字架の力を信じていないからです。
聖書の語る真実
まずは真実を直視してください。目をそらすなら、神の恵みを失ってしまいます。
私たちがどんなに「そんなはずはない」と言ったところで、聖書の言葉は変わりません。
これが神の基準なのです。
まずは、この重荷を負ってください。
重荷を負わなければ、悔い改めることはできないからです。
神の恵み
「私にはこんな基準は満たせません! ただ憐れんでもらうしかありません!」心からそう叫んだ人が、神の義を受けることができるのです。
間違ってはいけません。
この叫びは、「私はたくさんの罪を犯してきました」という程度のものではありません。
これは、自分にはまったく神の基準に到達する希望がないことを、心の底から知った人の叫びです。
兄弟を憎むなら、殺人の罪です。
情欲の目で人を見るなら、姦淫の罪です。
妬むことは、むさぼりの罪であり、金銭に頼ることは、偶像礼拝の罪です。
これらの罪と徹底的に戦うなら、あなたは自分の弱さを知り、打ちのめされるでしょう。
そうしてこそ、この取税人と同じ叫びができるのです。
まずは重荷を負うことです。
主は、そのような人を招いておられるからです。
重荷を負っていない人は、招かれていません。
神の基準に心から同意し、自分の無力さを知った人だけが、真にキリストにつながることができるのです。
信仰による義
義認と違って、信仰による義は、私たちが本当に義人に変えられることです。心においても律法を守ることのできる、本物の義人にしていただけるのです。
これをいただくには、自分がまったくの無力であり、神の憐れみにすがるしかないことを、心の底から知る必要があります。
「私はたくさんの罪を犯してきた罪人です」という認識では足りません。
「私には神の基準を満たす力が何もないことが本当にわかりました」という認識が必要なのです。
この認識を持つには、神の律法に心から服従しなければなりません。
神の律法に心から服従し、それを守りたいと求める人に、義が与えられるのです。
よく見てください。これは義認とは違います。
信仰による義は、聖霊の助けによってなされる、聖化に属する働きなのです。
このことを信じるなら、あなたは必ず義人とされます。
罪人のまま神の前に立つのではありません。
おわりに
あなたは義人ですか?
「はい」と答えることを、私たちはためらいます。まるでそれが不信仰で、傲慢で、悪いことのように考えてしまいます。
では、質問を変えましょう。
あなたは、イエス・キリストの十字架が私たちを癒やし、義に生きられるようになることを信じますか?
信じる者になりましょう。信じる人を、この方は義人にしてくださるのです。
「はい」と答えられないのは、不信仰で、傲慢で、悪いことです。
「人は義人にはなれず、罪人のまま神の前に立つ」という教えは、間違いです。
偽りの神学を捨て、聖書に立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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